日記・コラム・つぶやき

句・短歌から察する日本語の不思議さ

芸術・文学とは言わぬまでも、微妙で繊細な人間の心の内を、わずかな文字数と音・訓の巧みな使い分けで自己表現しようとする俳句や短歌などは、表意文字である漢字をうまく借用しつつ、しかもかな文字を活かして、豊富な語彙を有し言葉の持つ独特な雰囲気を大切にする日本語にしか出来ない、表音文字主体の外国語には絶対見られない、日本独特の言葉文化であると言ったら大仰に過ぎるだろうか。さらに、その俳句や短歌を嗜むひとにはどことなく気品と風格も感じられるなどと述べたら、それこそ俳句第二芸術論的観点からの批判ではないけれど、今度は買いかぶりで少々褒めすぎであると言われるかもしれない。でも程度の差はあるとは言え、多くの日本人もきっと同じような感覚を持っているのではなかろうか。

 

唐突にどうしてそのように述べたかというと、些細なことではあるけれど、以前からちょっとだけ気になっていたことがあるからだ。よく獄中につながれている死刑囚や長期服役囚などが、冤罪を主張し無実を訴えたりする際に、むろん弁護士の特別のアドバイスがあったり、彼らに何かの思惑があったりする訳ではないのであろうけれど、何故か、勿体をつけるかのように句や歌を添えたりすることがけっこう多いからである。そんな時、日本語の持つ独特の響き・雰囲気というのであろうか、或いは外国語にはない語力とでも言ってよいのであろうか、又そんな風に思わせることが本来の目的でもないのであろうが、おかしなことに、その冤罪を訴えている死刑囚や長期服役囚に風雅・高尚といった趣きや雰囲気を与え、人間的にもどこか厚みが増したように感じられ、この人本当は、そんな悪いことの出来る人ではないのではないかと感じられてしまうから不思議なものである。それまで抱いていたマイナスイメージもどこかに吹き飛んで、実際のところ、どんなに怪しい人のものであっても、句や歌を添えられた無実の訴えにそれらしく説得力が感じられたりするから、句や短歌に対する日本人の思い入れというものは実に不思議なものである。そう考えると、やはりそれが彼らの思惑であるという穿った見方も出来なくはない。そう言えば、どこかのテレビの人気居酒屋番組に出演している御仁の、一見しただけでは粋とは到底言いかねる、がさつこの上ない飲み方食い方であっても、いや本来の酒飲みからすれば「俄か酔人」と言った方がむしろピッタリなのだけれど、最後にそれっぽく雰囲気のある一句が画面に映し出されたりすると、逆にその落差ぶりにも妙な感興が湧いてきて、彼、そんな趣味人だったのかと妙に納得し、本当の人間性は分からぬが、それまでのどう見ても野暮としかと思えぬ飲み方にも意外な趣きと人間味も加わるような心持がするから、やはり句の効用は絶大かつ不思議なものなのだ。

 

まして日本では、昔から清水宗治しかり浅野内匠守や吉田松陰もしかり、いくさに破れたり罪をこうむったりした武士などが、まさに腹を切り首をはねられる瀬戸際・土壇場になっても、自らの潔さを示すためなのかどうかは分からぬが、もっともらしく辞世の句などというものを必ずといっていいほど残してきたのだから、詠歌や句作に対する思い入れ、これはもう日本人のDNAに完全に刷り込まれていると言っても過言ではない。それでも歴史上、藤原定家を筆頭にして、どんなに有名な歌人や俳人であっても、その作品から抱くイメージとは正反対に、実際には人柄や人間性に何かと、いや大いに問題のあったひとも結構いたようであるから、よくよく注意されることも肝要である。平べったく言わせてもらえば、それがたとえ享楽的で低俗的な作品であれ、真理の追求とは言わぬまでも最低限の社会的テーマの追求と社会的主張が根底にあって、作者の思想それに人柄とか人間性、つまりその人の実相が作品に大きく影響してくる小説や評論と違って、詩を含めて俳句や短歌では必ずしもそれは必要では無く、むしろ情緒が大いに関係しながら、人間の持つ一時の激情や情熱の発散をそのまま作品として表現することが出来るからであろう。だから逆に、「えっ、あんな悪党が?」とか「本当は、とんでもない性倒錯だったんだ」などと別の感興をもよおすことだってある。実際、そうでなければ面白くない。だから中国などでも春秋戦国期以来、今に至るまで、逆にその否定的印象とは別に詩人としての才能を持った歴史上の権力者や悪役イメージの人物は結構いたようであるし、ヨーロッパ初の本格的詩人と言われた中世フランスのフランソア・ヴィヨンに至っては強盗犯罪や淫蕩行為を繰り返したとんでもない大悪人であった。さらにその後、特徴的に19世紀ヨーロッパ詩人の中には、まるでひけらかすかの様に淫蕩を繰り返したバイロン、それにベルレーヌとランボウといった倒錯的で反道徳的関係を結んでいたエキセントリックな詩人たちも結構いたようであるから、そのように考えると歌が巧く句が達者であっても、必ずしも世間で言うところの好人物で善人とは限らないのである。しかしながら、だからと言うわけではないが逆に人間的に問題のある人でも、詩作とは言わぬまでも俳句のひとつでももひねれるようになれば、人生得になっても別に邪魔になって損になる事もあるまいから、我々も詠歌・句作技術の習得に大いに励むべきなのかもしれない。その短さゆえに、素人でも万人の胸を打つ出会い頭の大ホームランをかっ飛ばす可能性だってあるわけだから、その言語の持つ特性を生かして日本人は日々大いに嗜むべきなのであろうか。

 

 

それにしても、たった15文字あるいは31文字の中で、余分な語を削ぎ落とすかのようにして、それでいて微妙な心のひだを十分言い表せるのだから、日本語も本当に不思議な言語ではある。本居宣長などの昔の国学者が、思い込みの強い国粋主義的心情からであったとしても、ことさらに言霊などと強調したことはあながち根拠の無いことでも無かったのかもしれない。細やかで豊富な語彙の表意言語と、日本人から見たら少々粗雑にしか感じられない表音記号言語の差なのかもしれないが、セム文字以来のアルファベットの単純な組み合わせに過ぎない欧米言語では、先ずこうはいかないのであろう。つまり、人間同士が共有する概念としての対象を、アルファベット26文字の順列組み合わせで瞬時に記号化して共有する行為は、対象概念がイメージ出来てさえしていれば、例えばウェブとかクラウドなどといった独特のインターネット言語のように、まわりくどくなく簡単で便利ではあろうが、やはりどこか味気ない。それどころかNATOやTPPと言った頭辞語の様に、前提となるそれまでの蓄積概念が無いと、真意どころかイメージすら伝えられない。だから当然、人間の持つ微妙な感情を言葉だけで、つまり数十字だけで表現することには当然不向きで無理があると言ってもよいのだろう。

 

もちろん俳句や短歌などのような字数制限のある極少表現は無理としても、詩や小説などの文学表現はもちろん、歴史書や科学書などにおける記述表現は、字数制限の特段設けられていない日常記録文化として、単なる言語伝達機能以上に機能し、文芸科学としてもそれなりに洗練され進化発展して来たのであろう。それどころか、ぼやけたイメージを概念化して表現できる欧米言語は、その特質から哲学などの表現にはむしろ最適であったと言っていいし、逆に精緻に意味を特定する日本語ではまわりくどい表現になってしまい、哲学は難解な学問であるという思い込みを日本人に抱かせてしまった。一方で、句・短歌により近い西洋詩であっても、表意言語に慣れ親しんだ日本人には、それさえも韻文ではなく散文詩という形体をとらなければ、その味わいらしきものが具体的に分かりにくい。そんな訳だから、世上、欧米の大詩人と言われる人物たちによる作品であっても、その原詩を辞書を片手に懸命に読んでみたところで、特に英仏語的表現になじみの薄い日本人には、どことなく味気なく感じられ今ひとつ雰囲気がつかめない。しかしながら、上田敏や堀口大学らの教養ある優れた文学者達による絶妙な味付けと日本語独特の味わいによる意訳で、バイロンはもちろん、ベルレーヌとランボーとの微妙な関係を含んだ韻文でさえ、そしてハイネにカール・ブッセ、それにワーズワース、さらにシェリーやオスカー・ワイルドなどの作品を、それはスコットランド民謡をどこか懐かしげに聴くひとのように、日本独自の詩であるかの如く錯覚して、おそらく原詩以上の雰囲気で堪能できるのであるから、そういう意味では我々日本人は本当に幸せである。「逆はかならずしも真ならず」と言うけれど、反対に、日本の句や短歌や抒情詩に含まれた、日本人独特の雰囲気と微妙な味わいを外国人はどのように理解することが出来るのであろうか。少ないボキャブラリーで、一体、語彙豊富な日本語の味わいを理解し堪能出来るのであろうか。いや、そもそも日本文学そのものと言っていい川端や谷崎や徳田秋声の小説と、それは文章的味わいも当然そうだけれど、日本人から見れば文章力の上手い下手の巧拙も含めて対極に位置する、英文を直訳しただけの様な(筆者にだけ?)村上春樹の小説との違いが、はたして彼らに理解出来るのであろうか。そういえば、卑近な例ではあるが映画の題名にしてからが、外国映画の原題は何とも味気ないことが多く、逆に気取りすぎではないかと思えるほど雰囲気たっぷりに変えられた、日本語での外国映画タイトルとのギャップに思わず戸惑うことも多い。たんなる映画タイトルからしてこうなのであるから、逆に、彼ら外国人はどのような思いで自国の詩を味わっているのであろうか。別の意味で興味が感じられ、このあたりのことは、日本語と同じ程度に英仏語を操れる人に、理屈ではなくその微妙なニュアンスをうかがってみたいものである。万葉以来の、侘び寂びと言った日本人独特の美意識は、侘び寂びが先にあったのではなく、その日本語独特の性格に起因していることは間違いあるまい。いや、その辺りの事情はよく調べた訳ではないのでいい加減な事は言えないが、いやおそらくそうであろう。

 

ところで「柳多留」などで江戸時代に多く詠まれた川柳などには、あの俳句や短歌などのように自分を飾ったりお高くとまったりしたところがなく、洒落を巧みに利かせながら、また無駄な言葉の修飾もなく、そこに描写された日常のさりげない情景が、今になっても当時のままの息遣いとともに生々しいイメージで蘇ってくる。時代の雰囲気と当時の人間の生活の臭いが、俳句や短歌以上に、つい昨日のことのように伝わってくるのである。言葉から読み取れるユーモアが不思議なリアリティをもたらし、気どりの無い人間の心の内が分かって面白い。そう、たった15文字の中に素直に詠み込まれた当時の人物・風景が、時代を超えて、まさに今のことのように伝わってくるのであるから本当に感動である。そこが日本語ならではの、生きた言葉の何とも言えぬ魅力なのであろう。まさに言霊と言えば言霊である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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芥川賞に思う  作家の実相と作品

今、貸出しの延長を繰り返しながらも、近所の図書館から小林秀雄全集を借り出してきて、久しぶりに彼の評論作品に時間の許す限り目を通している。学生時代、生き方や思想は別にしても自分もそのように書けたならばと、加藤周一の評論作品と共に彼の怜悧な表現と芸術の様な文体には随分と憧れたものであった。あらためて、今も色褪せぬ日本の近代理知性を代表するかのような小林の教養、特にランボーを初めとする専門のフランス文学に対する造詣の深さ、そしてその研ぎ澄まされ透徹した文章表現に頗る感心している次第などと言ったら、それは当然のことだけれど、中也との女性問題も含めて立場的に彼を毛嫌いし、いや思想的に聊かでも彼に否定的な感情を抱いている連中からは、いくら何でもそれは褒め過ぎであろうと反発を受けるかもしれない。確かに若き頃、彼の作品に対する思い込みは我ながら相当強かったのかもしれない。しかしこの数十年、進歩保守を問わず、彼に匹敵する、或いは少しは感心するほどの客観的知性にはあまり出会っていない。まさに、日本の保守派を代表する良質な知識人であったことには間違いはあるまい。彼に対してどこかあらさがしをしようとしても、それは自分には追いつけない彼の才能に対するコンプレックスの裏返しか、せいぜいがプロレタリアート的ではないと言う、プロレタリア文芸全盛時の社会主義的価値観に基ずく単純な理由と、そこから派生した戦争責任論だけであり、さらには傍観者的で無責任に過ぎるという、いつの時代のどの評論家にも浴びせられるありきたりの批判だけであって、その時々における年齢的未熟さから来る、少々背伸びをしているのではと感じさせる若年期の大人びてませた表現も、若くして才能を発揮した人間であれば、誰もが背負う宿命的なものであってどうにも致し方ないことであろう。それよりも、逆にあらためて、この年になっても到底追いつけない、自分の教養と知識不足、そして何よりも文章表現の拙劣さを痛感している。

そんな中、文豪トルストイの恐妻からの逃避行の挙句、みすぼらしく客死したエピソードに取材した評論、特に正宗白鳥とのちょっとした論争を巻き起こした、「作家の顔」と「思想と実生活」は、ひょっとしたらランボーに通じるのかもしれない、如何にも彼のどこか冷めた評論スタイルを代表しているかのようで興味深く面白い。人類解放の、そして博愛の権化であるかのように世間で思われていたこの大作家の、たかが女房のヒステリーに日夜悩まされ続けた挙句、家出して野垂れ死にした現実と、その立派すぎる思想のあまりの乖離ぶりに対して、いつの時代にも変わらず存在する、底意地の悪さとやたら皮肉に満ちた俗っぽさで、いや到底敵いっこのない文豪トルストイの才能に対する僻みと妬みも含めて、いわゆる傍観者の利己主義も含めて、能天気に批判気に面白がって騒いでいる世間の無責任なムードに、小林なりの視点とレトリックで反論し、逆に冷静に冷や水を浴びせかけている。たぶん恐妻家であったであろうトルストイと違って、それどころか、それをさんざん揶揄した正宗に対する「正宗氏なら山の神の横っ面を張り倒すぐらいのことはするのであろうが」という部分のコメントは、彼のあの文豪への理解と同時に、世間に対する彼一流の嫌みのない皮肉が利いていておもしろい。

それに関連して思い出すのは、若き頃、当時の奔放な若者たちの姿を描いて芥川賞を受賞したのはいいけれど、作品が大して続かず、いやその受賞作自体ただ奇を衒っただけで普遍性に欠けて、その後は作家としては泣かず飛ばずで、要領良くと言うか上手く作家には見切りをつけて転身し、今では俗そのものとしか言いようのない薄汚い政治屋的イメージしか思い浮かばせぬ元タレント作家、いや保守政治家がかつて政治家になりかけの頃、彼の日頃の言動からすれば、彼の文豪とは全く正反対に女房の横っ面を張り倒すぐらいの亭主関白ぶりと、想いとは別に結果的には溺愛が過ぎて、我が子は軟弱そのものに育ち上がってしまったけれど、それでも息子たちに対する嘘か真かは分からぬメディアを利用したスパルタ式教育本の強烈なイメージが、当時の世間を相当賑わしたものである。そういう意味では、作家の日頃の言動と振舞い、そしてその生活態度には、逆の意味で懐疑的で人一倍敏感な方かもしれない。その作品を鑑賞する以前に、彼らの実生活を具に眺めていて、直感的に偽善性と胡散臭さが感じられ、少しでも自分の素直で意に沿わぬ納得のいかぬ発言や行動や嘘があったりすると、いやその忌々しげな表情を見ただけで、彼らの作品に対する世間やメディアの作った表向きの評判がいかように好意的であったとしても、いや世間の評判が頗る良ければ良いほど、天の邪鬼ではないけれど、反対に世間のムードに嫌悪を覚え敬遠する質なのである。だから僕も恐妻家の同病者として、逆にトルストイに対しては、同情とは別にかてて加えて、文豪らしからぬ人間臭さに大いに益々共感を覚える次第である。女房の浮気に対して何も言えずにいる、「戦争と平和」の気弱な主人公ピーエールはおそらく彼自身の投影なのであろう。

ところで、昨今の何かと話題の芸人作家の、一見風刺の全く利かぬお笑い芸と語り口、そしてお茶らけたイメージしか浮かんでこない実生活と実相から発される思想・表現、即ち小説作品とは、一体どのような代物であるのだろうか。元より、いまだ読んでもいない作品に対してケチをつけるつもりなど毛頭ないし、ましてやろくな文章も書けぬ人間の言えた義理でもない。そんなことをしたら当然、僻み妬みから出た単なるケチつけに過ぎないと世間に思われるのがおちである。それにゴーストだの編集者が相当手を加えている筈だなどと、そんな下種な勘ぐりを入れたがる輩は、大体へその曲がっただけのさもしい奴と相場が決まっている。しかしながらそうは言っても、やはりもろ手を挙げての世間の歓迎ムードがどうも腑に落ちないのである。しかも選考前からの、彼の受賞を期待させるように煽りたて、既に彼の受賞は決まったかのようにハシャギまくるメディアの報道ぶりを眺めていると、それが好意的なものであれ否定的なものであれ、毎年ノーベル文学賞の発表間近になると村上春樹を持ち出しては異常に大騒ぎする日本のマスコミメディアの姿に二重写しになって、それに触発された世間の評判と言うやつが、本当は事実から目をそらされた、まさに真実を見そこなかったかのような間抜けな姿に思えてきて益々耐えられなくなるのである。その上、真理の追究だの思想・信条・報道・表現の自由だのと、出版メディアが普段いくら綺麗ごとを並べ立ていても、自分の事となるとそれと全く正反対の事をやることが結構多い。そうした彼らの大騒ぎぶりを眺めていると、小説文学など言っても所詮ミスコンと同じ主観の世界、主催者が何とでも理屈を付けて辻褄は合わせられると、そんな詰らぬ勘ぐりをさえ入れたくなる世間のムードなのである。今度の件、今流行りのテレビ番組、芸能人一流格付け番組なるものと同じ要領で、つまり目隠しテストで経歴を一切隠して発表された彼の同一作品が、躊躇なく選ばれるのなら文句のつけようもないことなのだが、とにかくそんな検証など出来っこない。どこかの企業が主催するミスコンの選考が、既に大手プロダクションの唾のついた売り出し予定のタレントに事前に決まっているように、それが芸能プロダクションと出版社との提携による、商業主義に根ざした何でも有りの売らんがための本当に巧妙な販売戦略だったとしたならば、いくら出版界の生き延びていく上での方便であったとしても、それはもう彼らの自殺行為となる。

とは言え、実際は我々の様な何に対しても一旦は構える様なポーズを取るへそ曲がりには、件の芸人作家自身は表向きそう見せかけておいて、その内実と実相は言葉に言い表わせぬ世間の不合理と不条理に日夜悩み抜いていて、逆に作品内容はそれへの巧妙な投影なのかもしれないのだから、軽々に先入観とうわべのイメージだけで判断するのは如何なものかと大いに反論されるかもしれない。いや、日頃のイメージとは別に、実際の人間性との格差、つまり逆の意味での落差と意外性とで感動を覚えさせることもあるだろう。実際、そういう事もあるかもしれないが、しかし何しろこの二三十年、如何にも世間の関心を引こうとする、魂胆見え見えの奇を衒うだけの小説作品には、全くの食わず嫌いかどうかは分からぬが、嘘っぽくて読書欲が全く湧かず、タレント本は当然、どういう訳かその手の小説なるものに全く目を通していない。この年になると、もう残された時間も少ないせいか、時間が惜しく、どうしても未だ読んでいない過去の名作や古典にばかり目が向かってしまうのである。しかし、それでも恐らく彼の場合、小説家としての創造力と文章力は当然あるのであろう。だから論評する以上は、いくらなんでも必ず一度は目を通しておかねばなるまいと思っている。もし思いこみとは逆に感動を覚えさせられるような作品であったならば、その時は当然、潔く自らの不明を恥じねばなるまい。

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貧相な会話 世間の熱狂とツイッター

尖閣や竹島などの領土問題は言うに及ばず、慰安婦問題や靖国参拝に関する相手国の言い分に対する、言わずもがなのいちいちの応酬を含めて、ネット上に並ぶメディアによる世間を煽りたてるような刺激的見出しや、それを真に受けての人々の情緒的な発言の数々。そしてオリンピックやワールドカップなどのスポーツ国際大会になると必ず日本中を覆ってくる、近隣の精神的発展途上国の持つ一種独特で偏狭な民族主義に勝るとも劣らない、こちらの側の世間の間違った熱狂というやつにも我慢がならず、どうしても冷や水を浴びせかけなければ気がおさまならないたちなのである。

ただでさえ、のぼせ上がった世間の雰囲気というものは、たちの悪いメディアが絡んで散々煽りたてた、ちょっとやそっとのことではどうにも手に負えぬ代物である。だから負けじと、どうしてもこちらの表現も多少オーバーで過激にならざるを得ない。しかし、別段思い上がって世間を見下している訳ではないのだが、こちらのレトリック、いや本意を多少なりとも解してくれるのならいざ知らず、逆説や皮肉がそのまま素直な気持ちとして理解され受け取られたりして、大概の場合、その表現が逆にあだとなって誤解され、その上世間をなおさら意固地にして、益々手に負えない方向に追いやってしまう場合もある。

ましてや、今流行りのツイッターという代物、そういうレトリックの伝わりにくい世間の状況の中で、たった140文字という制約がかかっているものだから、文字通りの舌足らずで、世間に正反対の、今流の言い方で言うと真逆の印象すら与えてしまう事もあるようである。ふだん送りっぱなしで他人のツイートなどついぞ見たことなども無かったけれど、一度、あなたのツイートがリツイートされましたというメールが入っていたので、恐る恐るそれを覗いてみると、案の定、「死ね死ね」の連呼であったり「馬鹿馬鹿」の繰り返し、せいぜいが「くっだらねえー」程度の貧相な言葉使いなのである。我ながら大して利口でもないけれど、それでも僭越ながら、思わず「お前が馬鹿だ」と言いたくなるような、文字通り知性を欠いた、つまり完璧にボキャブラリー不足を絵に描いた様な輩の、この手の発言・単語が、ネットの世界でやたら飛び交っていたことにあらためて気付いた次第である。

これから先危惧するのは、相手の姿が見えないままに、ネットという仮想世界の中で、言語不足からくる貧相な会話しか出来ずに、しかもその自覚も無い、想像だけを勝手に膨らませてしまう一種のパラノイアたちが増殖して、普通の感覚では全く理解不能の様々な犯罪やトラブルが、それにも増して民族間と国家間の憎悪が益々増えていくことである。

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落語に名跡継承は野暮の天神

それこそ大看板などと囃し立てて、それで客を呼ぶようなことは寄席などで以前から行われていたことである。名前で釣って、それで本当に面白ければ、ことさら文句を付ける筋合いでもない。でも往々にして、昔から表紙や看板だけで売ろうなどとする輩に碌な奴はいない。構えて中身がない奴がよくやる方便である。それは本来、実力勝負・真剣勝負でなければならぬはずの大相撲などにも同じように言えることであり、やはり少し番付の地位があがると、なぜか過去の名力士のしこ名を引っぱり出してきて、それらしく理屈を並べ立てて名乗ったりしている。しかしながら、こちらの世界は以前から、そもそも取り組み自体が真剣勝負かどうかかなり怪しい業界だったし、また年寄株などといって名跡それ自体が売買の対象になっている特別な社会だから、この世界は別としても、かなり以前に月の家圓鏡が橘家圓蔵に、そして今度の桂三枝が桂文枝へと変わったように、江戸・上方を問わず落語の世界でも、せっかく活躍を始めてすっかりその名前が世間に馴染んで定着してきた頃になると、決まったように、わざわざ名跡などと黴の生えたような過去の古い名人の落語家名を勿体ぶって持ち出してきて、それだけで落語が上手くなると思うのか、ありがたがって二代目何何・三代目何々あるいは四代目・五代目などと、ことさら大仰に名乗ることがよくある。

あらかじめそこに、既に配分枠の決まっているに違いない人間国宝などという指定席をもっともらしく戴き、極論すると名跡継承と世襲を通して、すなわち歴史文化としてしか存在価値の感じられない、だから襲名披露興業の儲けに多くを頼らざるを得ない歌舞伎・能・狂言などのいわゆる世襲古典芸能ならばまだ分からぬでもないが、古典・新作を問わず、現在でも、いや将来にもわたってガチンコ相撲で人を楽しませ笑わせることの出来る、まさに噺・喋りの実力が物を言う落語などの実際的伝統芸は、そのもっともらしく受け継いだ名跡ではなく、当人の磨いた芸と、よほどの事情がなければ一代限りの世間での馴染んだ名前で勝負した方が自然であることは、今さら言う必要もないであろう。確かに、客の中には通を自認して知ったかぶりをし、「何代目の何々は」などと、、名跡を次から次へ並べ立てて得意気な顔をしている連中もいるにはいるだろうが、あれは単なる粋がり、野暮の天神、それこそ印象的で世間に認知された名前が一番いいのである。でなければ一体、あの面白かった噺家は、何代目の「何だか家何蔵」と言われてもまるっきりイメージが湧いて来ないのである。先年亡くなった、落語界の異端児の如き存在であった立川談志にしてからが、いったい五代目なのか七代目なのか、自分が何代目であったのか当人にもよくわかっていないのであるから。

名前などというものは本来単なる記号であり、他人と自分を分かりやすく客観的に区別する手立てに過ぎないのであるが、商売の為とはいえ、やたら大看板とか名跡などと勿体を付けて、それ自体を目的化しても意味がないのである。名前を変えるのは、せいぜい前座・二つ目から真打ちに昇進した時ぐらいのものであろう。名前で落語をやるわけでなし、世間に一番馴染んだ名前でずっと通すほうがいい。それこそ逆に、一度野球の永久欠番のように、自分の馴染んだ名前を永久使用禁止にし、後世の落語家が絶対に名乗れぬような大名人を目指せばよいのである。しゃれっ気のつもりでやる分には、またテレビなどのマスメディアに気を使って、その中でやっていかなければ存続していけないという特殊事情も理解できるから、まあ程度問題で特別目くじらを立てるほどの事でも無いのであろうが、お高くとまって、歌舞伎などと張り合うようにオープンカーでパレードまでして、また外国にまでのこのこ出かけて行ってことさらに襲名披露興行などと大騒ぎすることには、「おい、それはちょっと違うだろう」という、洒落では済まされない何かの引っかかりを覚えるのである。とにかく野暮の一言に尽きる、ただそれだけなのである。

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言葉の真意

ところで、「自分の考えを表現するための言葉も、時として、その考えを隠蔽するため、すなわち嘘をつくためにも役立つ」と、言葉の二面性に言及したのは、確か「大衆の反逆」の著者オルテガであったように記憶している。

確かに、それを口にした当人でさえ、後日、時間をおいて活字化されたり客観化された自分の言葉の真意を、果たして、そんなことを言ったかなと俄かには思いだしかねることも多々あるのであるから、まして、赤の他人の発した言葉の真意を汲み取ることなど至難の技であると言っていい。いや、それどころか殆んど不可能に近い。その昔、中学や高校の頃、よく国語の読解力を問う試験などで、この文中の主人公が述べようとしているところは何かとか、、作者の真意を述べよなどという問題がよく出されていたように記憶しているけれど、考えてみれば、当の本人でさえ定かでない人間の言葉の真意が、はたして赤の他人に分かろうはずもない。私など高校時代、よく国語の教師に「お前の答えは、非常にユニークで穿ってはいるけれど、国語の試験では正解にはならない」と苦笑交じりに、ちょっと皮肉っぽく言われた記憶がある。しかし、万人が共通の思いでおそらく同じ答えを出すであろう、全くさし障りの無い極めて常識範囲内の事であるならば、それも分からぬ事ではないが、いやそれさえも時として、異邦人ムルソー同様に、当人にさえ説明のつかぬ不可解な感情で、至って不条理な行動に走ることもあるから、そうとばかりは断言できない。

つまり、人間の心のひだは複雑怪奇で、杓子定規にそう簡単には計れぬゆえ、他人の心の内をいくら懸命に推察してみても、実際どれが正しいのかどうかは永遠に分からない。ましてや、その国語の読解力テストにおいてさえ、自分も含めて碌な点も取れなかった奴がほとんどなのであるから、凡人には他人の心の内を揣摩憶測して判断することなど、何度でも言うように不可能と言おうか至難の業である。その時の、言葉を発した当人の気分の問題もあるであろうし、同じことでも時と場所によっては、雰囲気だけで変わりうることもあるのだから。だいいち最初から、情緒的な人間を、それも他人の感情を画一的に判断し説明すること自体、数学の定理・公式ではあるまいし、どだい無理と言おうか随分とおかしな話なのではある。これはもう、カントの純粋理性批判哲学を持ってしても一向に解決され得ぬことなのかもしれない。

又それとは逆に、自分自身気がつかなかったことを的確に指摘される場合は別であるが、自分の思っていたこととは全く別に、しかも極めて好意的に解釈されてやたら褒められたりすると、「いや、本当はそうではないのですが」とも、つい言いそびれて、喜んでいいのか悪いのか複雑な気分になることもある。受け取り方は、ひと様々なのである。そう考えると、皮肉なことではあるが、言語の無い動物同士の方が、吠え方や鳴き声だけで以心伝心ではないが、誤解無く、互いの気持ちが伝わるのかもしれない。

ところで、同じ言語を使用する同国人同士からしてこうなのだから、まして性質・性格の異なる言語を使用する外国人との間で、正確な意志の疎通を図ることなど尚更無理なことなのではあるまいか。だから、言葉の単なる行き違いだけで起きた争いごとも結構多かったに違いない。こうした事情を踏まえれば、本当は世界が同一言語を使用すればよいのであろうが、事はそう簡単には運ばない。エスペラント語などはそういう背景で登場したのであろうけれど、人為的・人工的にに作られた言葉はやはりどこかぎこちなくて不自然である。そこで逆に、語彙豊富で人間の感情を精緻に、そして比較的細やかに表現できる日本語などは最適であると思うのであるが、いや、それでは我田引水に過ぎるか。まして日本人でさえ完璧に習得出来ているかどうか疑わしいくらい難解で、逆にその難解さから、明治の世に日本語廃止論を唱えた日本人もいるくらいである。だいいち、外国人が皆一様に習得するには手間と時間がかかり過ぎる。

そういう事情で,共通の概念をアルファベットの組み合わせで表現する、大雑把ではあるが簡潔で比較的習得しやすい英語がということになるのであろうが、よほどにボディーランゲージなども身につけないと、おおよその概念は伝えられても、真意はますます伝えにくくなる。まあ、どの言語を共通語に選択するにしても、先述したように、同じ言語をしゃべる人間同士でもあのように誤解が大いに生じるのであるから、とにかく自分の気持ちを百パーセント相手に伝えることは難しい。

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好感度の厭らしさと、世間の嘘

NHK大河ドラマに主演している女性タレントが好感度ナンバーワンになっただの、それでも視聴率が思ったほどに上がらずにNHKが困っただの何だのと騒ぎたてている。それに対して特別目くじら立てていちゃもんをつけるほどのことでもないのだが、しかし又、つられて世間が一喜一憂してそんなにも大騒ぎするほどのことでもないのにと思うのである。それでもよほどに暇なのか、なぜかメディアはもうどうでもいいことをやたらに騒ぎたて囃したてるものだからつい言いたくもなるのだ。おそらくそういう風に感じられる方もけっこう多いと思う。以前から、雰囲気に流されやすい世間の情緒的な層を相手にして、真っ当な根拠もないのに空気とうわべのイメージだけで、やれ誰々が総理大臣に一番相応しいなどという、その軽薄この上ないメディアがよくやる全く馬鹿馬鹿しいアンケート調査があったけれど、それと同じように好感度ランキングとか称して、映画やドラマそれにバラエティー番組などで演じられ作られた役柄と、そこから生まれる虚像を通してしかイメージの浮かばぬ、そして肝心の本人の素顔・実像の全く分からぬ芸能人やテレビタレントなどの、世間に対する嘘っぱちの好印象度をわざわざ調査しランク付けまでして発表することに、一体何の意味があるのかとほとほと呆れかえっていたのである。

 

何故そんな風に思っていたかというと、昔から今に変わらずあの世界には、創られた虚像とは正反対に、それを知ったなら思わず顔をしかめ眉をひそめ、不愉快になるほどの実像を持った人物が結構多いからである。しかも相当でかい顔をしてである。そして、よほどの不祥事や問題でも起こらぬかぎり、メディアもその実像には目をつぶり世間には公表されない。そして、分かっていても何らかの事情や都合で握り潰し、虚像どころか正反対の綺麗ごとを平然と流し続けるメディアが結構多いからもう手に負えない。

 

ところでテレビなどのワイドショー番組で、不相応に大金を得ながらもっともらしく正義面して、そのくせ自分の息子はコネという狡猾な方法でテレビ局に入れておきながら、傲慢とも思えるほどの政治批判・社会批判をカッコ良くしてみせていた某有名司会者などは、その首をかしげたくなるほどの実像を持った人物の最たる者に違いない。自分の頭の上の蠅も追えぬくせにあれだけ偉そうに言いたい放題好き勝手なことを言っていたら、因果応報ではないが、今に罰が当たって何らかの形でいつか自分に返ってくるぞと思っていたが本当にそうなってしまった。もっとも、五十歩百歩で彼と同じような胡散臭い人間はまだまだ沢山いるようだから、今度の件、世間の嘘が少しでも分かって面白くはあったが。

 

 

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レトリックの通用しない今時の社会

                      行燈省益

さしずめ、元官房長官殿の「自衛隊は暴力装置」発言に対して、「暴力団というイメージを連想させて自衛隊員やその家族は皆悲しんでいる」という、産経新聞のびっくりするほどに単純で稚拙な新聞記事などはその最たるものであろう。全くレトリックが通用しないのであるから。洒落も皮肉も逆説も、むろん「暴力装置」などという一見刺激的なメタファーなどは絶対に通じないのである。それこそ「頭に霜を置く」などと述べたら、「ふざけている」と、本気で怒りかねない雰囲気なのである。そのくせ、その程度の知的レベルで一丁前に、産経のみならず朝日を含めた多くの報道が、戦前、自ら進んで軍部の提灯持ちを演じたことに懲りもしないで、あたかも一部政治勢力のお先棒を担ぐかのように、そして自らの直観力・洞察力の欠如が原因で、辞める意思など毛頭無い元総理大臣の真意を見抜けなかったくせに、「菅総理、辞任を決意」などと先走った間抜けな誤報もどきの記事を掲げてしまった、その腹いせに、「総理大臣の速やかな退任を要求する」などと、越権的行為としか思えぬような大仰な提灯記事を、恥ずかしげもなく、それもどこかの大物政治家のお抱え記者の如く平気で書く有り様である。

昔から、それこそ政治家同士がよくやる、単に反対党やライバル政治家の足を引っ張るための、実際のところ政敵の本意・真意は分かりつつも、敢えて当該のレトリックを無視し言葉尻を捉えて相手を攻撃するという事ならば、善し悪しは別としてその政治的便法も分からぬではないが、新聞記者などは、それこそ誰からも独立して、国民・読者に発言者の真意・本意を分からせるインテリゲンチャを代表する知的職業であろうと勝手にイメージしてきた者にとっては、読むに堪えないあまりの稚拙記事の連続に、それが全くの幻想であることが、不面目の極みにして近頃やっと気がついた次第である。確かに、それはそうだろう。所詮商売マスコミ、政局も大事な飯のタネと言わんばかりの刺激的見出し記事の連発で、売れれば記事の質・報道の中身などどうでもいいわけだから。それもある種の深謀遠慮から来ているのならまだしも、知性・常識・成熟性そして理解力の単純な欠如から、さらには思い上がりと単純なナルシズムからきているのだから、まともな読者はもう堪らない。

最近の新聞・雑誌記事を読んだりテレビの報道を見たりして、或いはこれはと思うほどの、一見知的雰囲気を醸し出していそうな若い人達と話していたりしても、その表層と内実の知的落差に思わずびっくりしてあっけに取られることがしばしばなのである。もちろん、今の世代にも彼らなりの常識・教養・言い分は有るのであろうし、我々にはない感性を持っていることも恐らく間違いのないことではあろう。又いつの時代にも、そして我々世代にもレトリックを解せず、碌な思考、会話の出来ない同じような人種は少なからず存在していたことも否定できない事実なのであるが、まさかジャーナリズムの世界にまで蔓延して(精緻に過去のジャーナリズムを観察したわけではないけれど)それが世の中の知的雰囲気の主流になることなど少なくとも予想もつかなかったことなのである。

今思うと確かに、若き頃の我々の会話の中に青臭さは否めず、更には知識をひけらかす雰囲気さえあったのも事実であり、そして現在の彼らの様な会話の成り立たぬ人種も、様々な社会のその外延部・周縁には当然数多く存在していたのだけれど、しかし全てとは言わぬまでも、今やそれが中心部にまで浸食し、まさに社会全体の知的雰囲気のレベルを呆れるまでに押し下げているように思われて仕方ないのである。同じ舞台で土俵で全く議論がかみ合わず、前提として当然共有視されていると思われる社会的知識・常識が欠如していて会話が全く成立しないのであるから。

ひょっとして、それは我々世代の、それも一部にしか通用しない独りよがりの常識なのかもしれないし、もちろん今の社会・世代にも流行りの話題・雑学を含めての現代的知識と当世風の知恵は当然あるのであろう。しかしながら、困ったことに言葉をそのまま字句通りにしか解釈できず、行間から文脈からそして言外に溢れるその意味を全く理解できないのである。彼らに対して、まるっきり言語の選択を、レトリックを駆使して表現出来ないのである。真意が全く伝わらず、せいぜい誤解されるのがおちである。それはまるで無粋丸出しに、洒落を具体的に説明し、落ちを手とり足とり説明してからでないと、落語を聞いて不真面目だと怒りだすような輩を相手にしているような、何とも言えない馬鹿馬鹿しさなのである。挙句、言葉に対してストレートにしか反応出来ない、おそらく社会科学からも古典からも文学からも何の影響も感動も全く受けずに、センター共通試験に対応したゆとり教育と、文字通りテレビゲームだけに脳を鍛えられた世代の特徴だなどと言ったら、「お前に言えた筋合いか」「あんたがそれほどインテリなのか」と返され、お決まりの年寄り世代の紋切り型若者批判と逆に反撃されるかもしれないし、又、議論の前提になるレトリックをひとつひとつ「今のは皮肉ですよ」「今のは隠喩ですよ」「今のはパラドックですよ」「今のはウェーバーですよ、レーニンですよ」と、噛み砕くようにして分からせることには非常なためらいと労力も感じるのだけれど、それでも敢えて言わざるを得ないのである。

ひとは往々にして、過ぎ去った時代をことさらに美化し、かなり水増しして語りがちである。そのような人間の性から、自らも自由ではあり得ぬことは重々承知しているつもりであるし、「今の世の中は」とか「今時の若い人達は」等という、いつの時代にも有る歴史的陳腐な言い回しは、自分自身が若き頃散々聞かされて絶対にそれだけは口にすまいと誓ったことだけれど、でもこの名状しがたいもどかしさはどうすることも出来ないほどなのである。

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国民栄誉賞と女子サッカー

          相変わらずの馬鹿騒ぎ   行燈省益

かつてのバレーボール、とりわけ東洋の魔女が無敵の強さを誇っていた頃の女子バレーがそうであったように、今の段階では確実に女子サッカーが、当時の女子バレーボール以上に世界的な谷間・隙間スポーツであったとしても、それでも、それはそれなりに「よく頑張った」と当然褒められて然るべきものなのであろろう。いかに競技人口が少なくとも、従っていかに競技レベルが初期的段階で成熟していなくとも、そしてその運動能力が青森のカーリングチームに毛の生えた程度のものであったとしてもワールドカップはワールドカップ、取りあえずはFIFA公認の世界大会に間違いはないのだから、特別それに水を差しケチをつけるものでないことは当然である。

でも冷静に考えれば、只それだけの話なのである。可哀そうに、今世間の雰囲気から不当な評価しか与えられていない日本女子バレーの実力も、おそらく精緻かつ合理的に観察してみれば、今の方が当時の東洋の魔女たちよりも、数段確実に競技能力がレベルアップしていることは、きちんと物事を考えられる人達には当たり前の事実であろう。成熟した他のスポーツ競技にも言えることであるが、只それ以上に他国が強くなりすぎてしまっているだけなのだから。したがって例の如く、現在は、女子バレー以上に谷間・隙間スポーツの状況にある女子サッカーの優勝が、馬鹿のひとつ覚えのように、取りあえずメディア・スポーツジャーナリズムが「感動」「感動」と安っぽい言葉で日本人を煽りたてて、国民に提灯行列をさえやらかしかねない気分にさせるような、そして無謀で恥ずかしくなるような熱狂・興奮に向かわせるほどのものでもないことは、まともで合理的判断が出来る人間で有れば誰でも分かることなのである。

当方寡聞にして知らないでいたのだが、いっときの国民の熱狂に乗じた一部の安っぽいマスコミに煽られたのか、はたまたそれに便乗して人気回復を狙った政治家からかは知らないが、何と彼女らに国民栄誉賞という話が出ていたというではないか。今回は辞退したというから、彼女らも己の分をわきまえているというか賢明な選択ではあったと思う。せいぜい、地元の市民栄誉賞辺りでお茶を濁すのが適当・妥当ではある。もっとも国民栄誉賞自体が、八百長を疑われる否確実にそれが行われているスポーツ競技から平然と選ばれたりして極めて安易かつ大量に贈られているから、ことさらに目くじらを立てるほどのものでもないのか。

しかし今さらではあるが、普通の感覚の人間には照れくささと気恥ずかしさだけが感じられて仕方がないのだが、例の「さむらいジャパン」だの「なでしこジャパン」だのと、第三者・諸外国人から言われるならまだしも、自意識過剰なまでに自らが、実態とかけ離れたイメージ先行だけの名前を安易につけたがる、いつものマスコミの軽薄さ加減にはほとほと呆れるばかりなのである。慎み深い本物のサムライやナデシコ達の国では、絶対にこの程度の事で、こんな馬鹿騒ぎはしないのだから。

追記   

その後、抗いがたく度しがたいのぼせあがった世間の熱狂の後押しで、慎み深いナデシコ達もとうとう国民栄誉賞を受けたとのこと、何はともかく先ずはご同慶の至りに存じ上げます。

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そら見たことか、八百長相撲に垣間見るマスコミの罪と罰

        マスコミの欺瞞とそれに付和雷同する世論  行燈省益

八百長相撲とマスメディアと世論のこれまでの一連の関係を眺めれば、そこに思考回路と精神性を含めた日本人の全体像が鮮やかすぎるほど浮かび上がってくると言ったら果たして過言であろうか?

いやはや、とにかく恥知らずとか臆面もなくとはこのことを言うのである。十分すぎるほど予想されていたこととは云えマスメディアそしてそれにたかる寄生虫の厚かましさもここまで来るともうあきれ果てて物も言えない。一部週刊誌は別にして、NHKを始めほとんど全てのテレビ・新聞等のマスコミが傍観者を装って不正告発者を白眼視して黙殺し、結果的に相撲協会の片棒を担いで八百長隠蔽工作に参加していたくせに、事が警察沙汰になって悪事が露見しもはや隠しおおせなくなったと見るや、一転してこれまでの自分たちの発言・行動を棚に上げて、他人事のように正義の味方を装い相撲協会に非難がましいことをなさっておられる。いつものこととは言えもうあいた口も塞がらない。しかしながら本当に知らなかったと主張するのであれば、皮肉なことだけれど、反対にその取材能力を甚だしく疑うのだけれど。

さらに腹立たしいことだけれども、テレビ・ラジオ・新聞などで散々好角家をウス気取りそれをひけからしてきた、やくみつる・内舘牧子・デーモン某・永六輔・野坂昭如など自称他称の知識人・文化人達に至っては、以前から相撲は八百長などありよう筈もない日本古来の美しき伝統芸が如き姿勢で発言していたくせに、反省するどころか、今に至っては八百長そのものも実は日本文化の一部であるなどと、これまでの論理と矛盾した珍妙な詭弁を弄して開き直る始末である。元NHKアナウンサーの杉山某や中沢某という相撲評論家に至ってはもう論外も論外、おごそかぶって胡散臭い横綱審議委員会などはとにかく消えてなくなれである。今さら八百長相撲を論じてもアホらしくて虚しくなるだけであるからいい加減にやめたいのは山々なのだけれど、それでも一連の大相撲とメディアの関係を通して、そこに実にお人好しで間の抜けた日本人がいかに多かったかはよく分かったことと思う。こんな安っぽいマスコミと似非文化人らに世論が形成されてきたとは何ともやるせないけれど。

相撲に限らず、どの分野・領域においても愚劣で薄っぺらでご都合主義に染まった商業ジャーナリズムの嘘が見抜けず、逆に後生大事にそれを盲信する庶民という名の日本人の精神性とそこから発生して作られる民意という世論、ここまで騙されてそれでも分からないやつは、それこそ文字通り、豆腐の角に頭をぶつけて、ついでに普通選挙権なども返上して死んだ方がお国の為にもましであろうというものである。

操作された情報に何の疑念も抱かず、ワールドカップもオリンピックもそうだけど、煽られて作り上げられた熱狂に情緒的に即反応する庶民感覚という代物ほど実に怖いものはない。何しろ選挙となれば、どんな衆愚も平等に同じ一票を行使でき、そしてその結果、マスコミとそれに操られた世論という民意によって政治・政府が勝手気ままに形成されるのだから。そんな風だったら当然、国民の好戦的気分を煽りに煽って軍部のお先棒を担いだ戦前のマスコミと五十歩百歩の今のマスコミなのだから、逆に皮相的で欺瞞的な報道の自由も表現の自由なども却って無い方がよいのかもしれない。

万事が万事こんな訳であるから、よくテレビのニュース番組などの街頭インタビューに必ず登場してくる、、明らかに100パーセント、マスコミのそれもテレビ・新聞の受け売りに過ぎないと思われる薄っぺらで利いた風なことを口にするあのサラリーマン・OL風の男女の発言が、あたかも日本の代表的な健全で間違いの無い模範的民意であるかのように映し出されると無性に腹立たしくなってくるのである。一体メディア信仰という迷信錯覚はいつまで続くのやら。しかしながらマスメディアも多少なりともまともであれば、自分たちの陳腐でさし障りの無い主張・論調に見事なまでに染まってくれる世論を見て、皮肉なことだけれどもきっと面映ゆい思いでいるに違いない。いや思わず悦に入っているのかもしれないが、それもこれも社会の公器をを僭称して、電波・活字媒体を独占的に支配して思い上がっているテレビ・ラジオ・新聞・雑誌というマスメディアにたいする、日本人の漠然とではあるけれど卑屈なまでの信仰にその一因があるのかもしれない。

今の時勢を捉えて有体に言うならば、一方で不正相撲の存在に敢えて目をつぶり、それがはっきりと世上に暴露されて逃れられぬ段階になってからは、自らの共犯者的立場は巧みに隠蔽して全く無関係であったかのように振舞うマスコミと、他方でそれでも未だ八百長批判を消極的・洞ヶ峠にしか行わないそのマスコミを眺めて、多くのマスコミが今も相撲とりを「お相撲さん、お相撲さん」などとやたらな親しみをこめながら八百長存在を曖昧にしか肯定しないものだから、メディア信仰から抜けきれない多くの日本人が、怪しいと思いつつそれでも大阪場所が中止になったら淋しいなどと言って未練がましく、まだ相撲に興じようとする図式が存在するのである。そんな訳だから、このあまりに日本的であるがために大相撲に顕著に現れた様々な問題傾向が、政治や社会そしてスポーツを含めて日本人の思考回路の全てに同じように作用していると敷衍して述べたら、果たして論理の飛躍大げさに過ぎるであろうか。

結局、スポーツ競技とは本来相容れない形式的伝統芸のひとつに過ぎない相撲の不合理さ、そして曖昧さも指摘できないマスメディアに、格別、政治家などを擁護するつもりなど毛頭ないけれど、尖閣で、北方領土で、子供手当で、普天間で、消費税で、何を勘違いしているのか偉そうな顔をして高飛車に政治に意見して批判する資格など全くないのである。

たかが八百長相撲だけれど、そこから浮かび上がってくるのは、全てではないだろうけれど愚劣なマスコミに踊らされ騙されても、決して怒らず自らの愚かさにも全く気付かない日本人の不思議な心象風景なのである。

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あまりに日本人的な?不思議な集団心理

         東京総武線地下駅に見る不可解なしきたり   行燈省益

もう大分以前からのことであるけれど、たまに東京に用事があって、総武線地下駅ホームに降り別のホームに向かう時などに、些細なことであるけれど妙に気になっていたことがある。さして重要なことでもないし、おそらく今では全国的に蔓延していると思われることなので、敢えてことさらに述べ立てることでもないのであるが、例のエスカレーターの右側を空けておくという奇妙な習慣、あれは一体いつ頃から始まったのであろうか?ちなみに大阪では、その反対の左側であるらしく、その伝でいくと名古屋では真ん中かとつい突っ込みを入れたくなる程度の話ではあるのだけれど。いや、今や外国の一部にも広がっていると聞くけれど?

当初こんな掟が存在していることに全く気付かず、ある時うっかりと、幼い子供を右にして手をつないで横一列で並んでいたのであるが、下から駆けあがってきた乗客が何とも不機嫌そうな顔をして立ち止まったことを覚えている。それでもたまにしか出かけぬ東京故、そんなことはすっかりと忘れていたのであるが、その後何故こんなことが気になったかと言うと、いつだったかこんな不思議な光景に、それも再三再四出くわしたからである。それこそ左右二列に並んで乗れば、全員がより早く上がれて全く問題にならぬのに、混雑した下のホームから上に昇るエスカレーターの左側の長蛇の列とは対照的に、文字通り右側にはひとっこ一人乗客がいなかったのである。その時も、そんな馬鹿げた不文律の存在に気付かずにいたため、自分だけが唯ひとりガラ空きの右側に乗って悠々エスカレーターに運ばれていったのであるが、今度は他の乗客が自分を何か不思議なものを眺めるかのようにしていたのを何となく感じたのである。

そうか、エスカレーターの右側は駆けあがる人のために常に空けておき、普通に利用する人はどんなに右側があいていても左側に一列に並ばねばならないのだ。しかしそれにしては、「安全のため、しっかりとベルトにおつかまりください」としつこいまでにうるさくテープが流れているし、第一そんな規則を示した掲示看板などどこにもないではないか。どこか腑に落ちぬ気持ちでいたのであるが、どうもそんなことを気にする人はあまり他にいないらしい。しかしながら、その後こんなこともあったのである。

どうやら旅行者と思われるリュックを背負った欧米人二人が、そして少なくともその二人は、そんな独特な風習が日本に存在するとはおそらく知らなかったのであろう、エスカレーターの先頭に横一列で乗ったものだから、何と後続の日本人乗客も全員行儀よく、その後ろに二列に長くおとなしく並んで乗ったのである。本来は恐らくこんな乗り方が正しいのであろう。ペリー来航以来?の、特に白人に対する遠慮とコンプレックスのなせる業が、たまたまそのような珍妙?な光景を現出させたのであろう。やはり、日本人は外圧に弱い?当方、海外旅行などほとんどと言っていいほどしたことの無い身なので、それが日本人だけの風習であるとは、はっきり言って今ひとつ断定は出来ぬことなのだけれど、それでも日本人同士であったなら、罵声のひとつも飛んで険悪な空気が流れるのは必定であるのに、二人のリュックを背負った欧米人の後ろに、誰ひとり文句も言わず、お行儀よく並んで乗る日本人の姿は一種独特な雰囲気を醸し出すもので有ったのである。しかしながら、すっかりそんなことも忘れていた先日、ついうっかりととんだへまを犯してしまったのである。

何年振りかに、やはり東京駅の地下ホームに向かうすいていた下りのエスカレーターで、左側に大きなバッグを置き右側に立っていたところ、後ろから男に思い切り突き飛ばされそうになったのである。思わず「危ないじゃないか」と怒鳴ったところ、「お前こそ邪魔だ」と逆に捨て台詞を吐きながら追い越して降りて行ったのである。思わず彼の非道ぶりを訴えようとそばにいた乗客の顔をのぞき込んだら、逆にあんたの方こそ非常識だという表情をされる始末である。どうにもやり切れぬ気持ちになって、駅員室に駆け込み事の顛末を告げたのであるが、駅員のその答えが益々不愉快なやり場の無い気持ちにさせたのである。

「別にそんな規則はありませんが、乗客の皆さんの間に自然に広まったマナーです。」と逆に美風が如く能天気にのたまうではないか。駅員に「それでははっきりと看板に書いて立てておけばよいではないか。規則でも何でもない中途半端なマナーを知らずに右側に乗って、後ろ側から突き飛ばされて怪我でもしたら一体JRはどう責任をとるんだ」と詰め寄ったところ、ようやく事の重大さと不条理なマナーの存在に気づいたらしく「申し訳ありません。確かにおっしゃる通りです。」と言ったけど、どうもその後の状況も特段変わっていないようである。

こちらも、理屈をこねて只固いことを言っているのではない。確かに、時間帯によっては臨機応変に、すいているエスカレーターを右でも左でも駆け上がるなりかけ下がるなりして、安全に留意して、それなりに急いで利用すればいいのであり、それは特段、目くじらを立てて非難するほどの事でもない。それどころか、どんなに空いていても常に行儀よく、二列で並ばねばならぬというのも窮屈すぎることであろう。ましてやエスカレーターだけで、階段の無いホームも多くあり、急いでいる時などに駆け上がりたい気持ちもよく分かるのである。でもそれは、本来の規則に反することであり、ましてや前に立っている人間を押しのけ、突き飛ばしてでも行使する右側通行の権利では絶対に無いはずである。もし、それが本当に安全で便利であるマナーであるならば、「動く歩道」の様にきちんと規則化して表示しておくべきだし、或いは、せっかちな乗客の為にかけ下りかけ上がり専用のエスカレーターを別に設ければよいではないか。件の二人の欧米旅行者の国には絶対に無いと思うけれど、日本趣味・異国趣味の強い外国人や、高度経済成長以来、何かにつけて日本人の行動スタイルを、見習うべき手本と捉えるアジア諸国の中には、こういったことを、日本人特有の心遣い・思い遣りと捉える向きもあり、ひょっとしてその影響からかどうかは分からぬが、外国の一部でも同じような事が行われていると聞くけれど、それはとんでもない思い違いなのである。

押し並べて、どこの国の人間にも鼻につくほどの厭らしさを、同じように一つや二つ含んだ国民性というものは間違いなく存在するのであろう。だから、殊更に「日本はとか、日本人は」などという安直な物の言い様は気の引けることなのであるけれど、でもやはり、あの東京駅のエスカレーターに現出する極端で奇妙な光景は、思わずエスカレーターの使用を躊躇して、そこの空気からいっときも早くのがれて、どんなに疲れていても思わず階段を利用したくなる気分にさせるほどのものなのである。やはり、尼崎脱線事故や明石歩道橋将棋倒し事故の時のように、一度大事故が起きて加害者と被害者になって争ってからでないと、事の重大さ・不合理性に気づかないのであろう。とにかく駅員も乗客も含めて、日本人は何かにつけて、良い意味でも悪い意味でも独特で不思議な国民ではあると思うのであるが、そういう言い方が、はたして適切なのかどうか大いに迷うところではある。

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