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ずいぶんと神格化された日本人 西郷どん

                            

                            行燈省益

心酔しきっていた斉彬はともかく、それが全く反りの合わなかった国父様であったとしても、当初彼の決断と行動の前に常に有ったのは、忠義に絡め捕られた自らの藩と主家筋のご意向、つまり薩摩と言うちっぽけなクニの都合だけで、ことさら日本国をどうこうしようという大それた考えが、その頃の西郷の頭にあった訳でない。若き頃彼を突き動かしていた大きな要因は、藩に対する単純な忠誠心と情(じょう)だけであり、そこには島津家を超えて、普遍的な天下国家にまで辿り着く崇高な理念や理想など存在する由もなかった。もちろん、自らの藩の「領民」と言う程度の最低限の問題意識は彼にもあったにせよ、そこにペリー来航以来、日本中に雨後のタケノコの様に現出した短絡的で狂信的な天皇主義者達でさえもが、「尊王」とか「攘夷」と言ったお決まりのスローガン以外にもとりあえずは口にしていた、「人民」などと言う気の利いた問題意識や概念など有り様の筈がなかった。

 

そんな訳だから当然、その後の人生も含めて、彼が思想めいたものを現実的に開陳していたとすれば、それはせいぜいが、清の康熙帝が好んで扁額に掲げていた「敬天愛人」などと言う、中国の皇帝自らがどこか適当な漢籍物から端折っただけの、それも如何にも日本人受けのするうす気取った言葉の響きと、尤もらしい雰囲気の漂った人生標語を交えた書や賛があっただけで、まともな政治理念や国家観の窺える著作らしきものは、彼の肖像写真と同様何ひとつ存在していない。浅学寡聞の身なれば誤りがあったらご容赦願いたいが、只はっきり言えることは、斉彬からの多少の影響はあったにせよ、そして敢えて付け加えれば陽明学をかじっただけで、もともと彼には世界を見据えた明確で卓越した国家論も政治論も無く、要するに後年ずいぶんと神格化された割には、右にも左にも関係なく、ただ情と人間関係で動いていただけの思想には全く無縁の徒であったという単純な事実だけである。つまり、西南戦争後しばらくして何となく神格化されてしまった彼を、敬天愛人などと上っ面のイメージだけで、具体的根拠も無くただ何となく尊敬してしまっている多くの日本人には大変申し訳ない事だけれど、そこにはずいぶんと期待外れで冷酷な歴史事実があったに過ぎない。

 

僧月照との入水事件や、二度にわたる遠島処分といった彼の一連の行動や過酷な体験が、後年結果的に予期せぬ討幕につながったとは言え、禁門の変での振舞いや長州征伐への深い関わり合いを含めて、それまでの一連の擁幕行為が彼自身の理念と思想というより、これ全て幕府や藩上層や他藩の思惑の結果であり、同様に後の討幕行為自体も当然彼が最初から目指していたものでなく、様々な人間のそれまでの思惑と企み、それに彼を取り巻く状況変化や薩摩藩の都合が複雑に絡みあった結果、実行当事者として白羽の矢が藩の実力者に成り上がっていた西郷に当たっただけと言う単純なものであって、彼自身が自らの思想イデオロギーの帰結として、最初からその後の遠大な日本の進むべき具体的姿を思い浮かべての決断ではなかったのだ。そして突然の慶喜の大政奉還と言う奇策に対処するため、一度決めた以上は何としてでも武力討幕を目指そうとする意固地な彼が、幕府を挑発する為だけに大久保と一緒になって仕出かしたことは、江戸市中での浪人ゴロツキどもを使っての押し込み強盗や辻斬り人殺しなど悪辣この上ない犯罪行為と、後述する京都での種々の陰湿な暗殺指令だけで、目的の為には一切手段を選ばぬ彼が、元々から情とともに併せ持っていたのであろう、一度決めたら冷酷に徹することの出来る非情さは別にしても、そこに至るまでの、つまり幕軍の軍司令官から討幕の総司令官への大転換と言う経緯には、計算され尽くされた彼自身の深い思想的洞察や悩み抜いた葛藤があったとは到底思えない。自藩に対してだけは別として、幕府や他藩の関係者に対しては、武力討幕と決断したならばそれまでの情誼など一切考慮せず、邪魔と思えば、これっぽっちのためらいもなくあっさりと暗殺や人殺しさえやってのけていたのだ。平時での決断の速さは、あらゆる意味で肯定的に捉えられることは可能だけれど、後の西南戦争もふくめて、非常時には逆にその決断力と潔さには怖さも伴うものなのだ。(押しこみや人殺しなど知らぬ事と手紙には書いているけれど、扇動した黒幕が私がやりましたなどと言わぬだろうし、逆に薩摩の実質的権力者が何も知らなかったでは済まされまい。では一体、誰が指図したというのだ!後年、薩摩藩関係者は不自然なほど、西郷のイメージダウンを恐れて彼とダーティーな部分との関連を隠そうとしている)

 

それは兎も角、未来を見据えたいっぱしの政治家であり思想家であったならば、討幕に散々尽力して、後年せっかく新国家を背負って政治権力の檜舞台に登場しながら、船頭多くして船進まずを絵に描いたような新政権だったとは言え、征韓論などという実につまらぬ問題で、持ち味売り物の至誠熱情が通じぬとみるや、すぐさま投げやりで中途半端な下野の仕方などしていなかったであろう。そう考えれば、私腹肥やしに専念して腐敗を極めた山縣有朋や井上馨らの胡散臭い尊攘派の志士あがりとは正反対の、私利私欲の少ない人間とも言えなくはないが、その潔さが一方で単純で無責任ととられてもおかしくはない結果を残したのだ。それに常に表舞台で活躍し続けた彼ほどの人物になれば、尤もらしいそれなりの著述や記録も自ら当然残していたであろうに、基本的には他人からの働きかけと情だけで動き、最初から政治的指導者としての自らの明確な理念の欠如していた彼にとって、戦前の道徳授業にピッタリな孝行とか忠義とか、はたまた人間は如何にして生きるべきかと言った、まるでリーダーズダイジェストにでもぴったりなそれらしい人生訓や人生標語が有るだけで、自分自身の思想を具体的に表現したものは既述したように無いに等しい。もともと有ったリーダーシップ、それに晩年にかけて益々強くなったカリスマ性と、未成熟で世間知らずなだけの若者達、とりわけ男色めいた性癖の若者を惹きつける独特の男っぽさと人間的情味はある程度認めるにしても、そして、そういう無知で向こう見ずな若者たちの存在が彼の神格化に少なからず貢献したと言えなくもないが、それも含めて西郷評価のすべては他人が語る彼の行動と人物像だけであって、戊辰戦争後の彼の温情に感謝した、素朴で実直な元庄内藩士らによる「南洲翁遺訓」などの様に、好き嫌いなからだけの世間が勝手に描く人物像と、忖度なだけの評価が横行横溢していたに過ぎない。そこには、上野のお山の犬を引き連れた彼とおぼしき銅像の様に、世間のこうあって欲しかった、ああいう風にあって欲しかったと思う勝手で情緒的な期待と、薄っぺらな神格化が付け入る余地が残されていただけなのだ。

 

幕末期の混乱、そして討幕から西南戦争に至るまでの混迷の時期、彼には人民と言う意識はもちろん、自ら発する気の利いた明確な政治理念など殆ど無く、いつも周りから推される様に、いや祭り上げられる様にただ情だけで動いていたに過ぎない。そのうえ、見せしめのため新政権によって処刑され人体解剖にまで付された、悲運の漢詩人、米沢藩士雲井龍雄が悲憤慷慨して非難したように、特に幕末、目前の状況変化に薩摩藩つまり自らの立場をも、理念も無く容易にそして巧妙に変節させていっただけなのだ。それでも、一連の詳しい歴史経緯を知らぬ多くの情緒的日本人には、その後洗脳された王政復古と薩長史観にも惑わされて、西郷の併せ持っていた非情さは都合よく捨象され覆い隠されて、ことさら情に溢れた様にだけ描かれた彼の表層的な人物像が大いに受けるのだ。特に今以上に民度の低かった当時の日本人の、ましてや瓦版的新聞や錦絵情報からしか判断出来なかった社会状況もあって、情緒的気質と浪花節的人物嗜好にぴったり合った好個の人物であったことは間違いない。戦前、彼に当たり前の理由からであっても僅かでも批判を加えようものなら、即座に村八分、非国民の烙印を押されたことほぼ請け合いの人物であった。天皇制軍国主義とも合わさって、明治の賊軍と言えども、まさに侵犯せざるべき領域にまで達していたのではないかと思わせるほどの評価ぶりであった。だから逆に、彼に非情な胡散臭さを感じる側からすれば、敬天愛人だの南洲だなどと、何だかんだ勿体ぶったフレーズや名前が先ず鼻につくけれど、そもそも隆永という慣れ親しんだ筈の本来の自身の名がありながら、隆盛なる父親の名が、なぜか政府への申請書類に間違って記入されたという単純な経緯であったにもかかわらず(巷間そう言われているけれど)、どさくさに紛れての親思いぶりをひけらかす為なのかどうか分らぬが、すぐに訂正すれば簡単に済むものを、その後の歴史教科書には舜の孝行話にもなぞらえるかの如くわざとらしく勿体ぶって当たり前の様に放置記載され、今に至るも世間に流布され続けるという、そんな不自然さといい加減さもどこか腑に落ちない。余程の事情がない限り、本来の自分の名前にはもっと執着すべきであり、親孝行や恬淡さをひけらかす為の単なる思惑や方便から、自分の名前が物同様にぞんざいに扱われるべきでもないだろう。(彼に限らず、昔の人は慣れ親しんだ自分の名前に大事にしているようで妙に頓着しない)

 

ところで情けに厚いという世間の薄っぺらなだけの評判に反して、前に述べた様に彼には目的の為なら手段を選ばぬという裏の怖さがあって、例の大政奉還の頃の、実はこれが一番肝心なのだが、一度大義正義と思い込んだらその目的の為には我が子も平気で殺しかねない、かなりな非情で歪んだ一面を併せ持っていたのだ。幕末の開明的な思想家であり兵法家でもあった信州上田藩士の赤松小三郎という人物を、当初その学識を大いに評価して、いやそれどころか客観的に見てもその後の日本にとって実に惜しむべき好人材であったのだが、京の彼の私塾に多くの薩摩藩士を入塾させ、更には薩摩本国にまで招聘しようとするほどの惚れ込み様入れ込み様の評価ぶりであったのに、武力討幕の事実を知られたと見るやその口封じのため、それまでの交流情誼は一切無視して、中村半次郎(桐野利秋)らの様なヤクザ親分の為なら言われずともその意を体して何でもやるチンピラざむらい輩をそそのかし、無慈悲にもあっさりと斬り殺しているのだ。中村は自身が、そこの塾生弟子であったにも拘わらずである。そこには師弟関係よりも絆の深く固い、そしておぞましいとしか言いようのない西郷と中村のただならぬ異様な男関係が感じられるのだ。しかも彼らは単なる殺人者であったにも関わらず、人殺しの罪は問われぬまま、その後政府高官にまで上り詰め、挙句日本の偉人扱いされるまでになったのだ。その経緯は非常に重要で暗示的であり、その後同じ様に暗殺された坂本竜馬にも繋がる重大事件だったのだ。徳川幕府に内包する身分制を否定しようとする討幕の契機があったにしても、人民と言う概念も薄く、その内実はより身分制的で復古的な天皇制を目指した西郷らにとって、おそらく竜馬らが目指した、薩長政権よりはいささかでもましで民主的な雄藩連合による共和制国家のトップの座に、将軍の地位から降りたばかりの徳川慶喜(もしくは春嶽あたり)を推挙しようとした彼が許せず、邪魔になったであろうことは容易に推察される。

 

さすがにこの時点では、西郷も大久保も将来の国民的竜馬人気を見越してはいなかったのだろうが、明治になって、今さら私たちがやりましたとは言えぬ雰囲気になっていたのだ。かつて竜馬に、配下の捕り方を寺田屋事件などで殺され復讐心に燃えていた幕府の役人らに情報を流し、直接手を下さずとも巧妙に暗殺に関与したことは、赤松暗殺事件の一連の経緯を考えればほとんど事実のように受け取れる。しかしそれを認めれば、今までの小説や映画ドラマ、果ては教科書までが全てご破算になるのだから、今の世間では事実であっても容易には受け入れられない。つまり「西郷どんは情に篤かひと」と言う厄介で思い込みの強い国民感情と言うやつがある。それに事実はどうあれ、竜馬と西郷どんは仲良し同志であってくれなければ、司馬遼太郎も大河ドラマも困ろうというものだから、メディアも諸説他説を持ち出して来ては、色々と屁理屈難癖を付けて今さら簡単には引かない。それでも、あれほど間近まで幕府の取締りから匿ったり物心両面で援助して交流していた人物を、武力討幕と言う目的の為に突然しかもあっさりと裏切り抹殺しているところは、赤松殺害事件の経緯とすこぶる酷似しているのだ。その後の日本の行き着く先を考えると、自分がいったん正義と思い込んだことなら躊躇なく決断する、実は西郷のその躊躇のなさが怖かったのだ。

 

事実上、赤松暗殺の黒幕張本人は、後年、下手人を自ら告白している中村半次郎が心酔しきっていた西郷であったことは、状況証拠も真っ黒けで誰が考えても自然明白であるのだが、天皇制批判同様に男色も絡んだ西郷批判も半分タブーなのであろうか、薩長史観に未だまみれているほとんどの日本人は、それどころか赤松暗殺事件の存在さえ知らないのだ(当時の薩摩藩の関係者は不自然なまでに、西郷の関与についてその後も一切口を閉ざしていたのだ。彼に絶対に類が及ばぬように。つまり、よほど西郷の事実とは全く違う清廉イメージ、例の敬天愛人を守ることが大切だったのだ)。そもそも日本人のほとんどは、中国人思考のコピーにしか過ぎない「敬天愛人」などと、まさに上っ面のイメージだけで、冷徹な陰謀家という認識はないのであろう。しかしながら因果応報とも言うべきか、西南戦争に至る彼の哀れな末路を考えると、それは目的の為には冷酷な陰謀手段をも辞さなかった彼の自業自得の結果とも思えるのだ。因みに、赤松の主君は積極的な開国通商策で、彼の大老井伊直弼さえもが辟易とさせられた、上田藩主であり英明な老中でもあった松平忠固であった(昔の映画やドラマの中に、いや今もたまに出てくる松平忠固とおぼしき人物、全てが紋切型に頑迷固陋で朝廷に弓引く、しかも影の薄い悪漢イメージに描かれている)。この赤松や坂本ら開明的な二人を西郷が無慈悲に粛清していなければ、その後の日本は大きく変わっていたに違いない。そのような視点から眺めると、広島長崎の原爆をはじめ、首里城や名古屋城や岡山烏城はおろか全国が焼けつくされ、北方四島まで奪われボロボロにされた、昭和二十年八月の薩長の目指した日本の惨状を思うにつけ、そのことを忘れて、未だ続く日本人の度の超えた西郷への崇拝ぶりと神格化はあまりにお目出度く、実に軽薄で目に余るのだ。

 

我が国における、幕末期の外国人排斥以外の何物でもなかった偏狭な尊王攘夷運動は棚に上げ、いやそれどころか英雄視して語るくせに、同じように偏狭で排他的行動に走った朝鮮人を見下した征韓論を見るまでもなく、幕末期に見せた、「敬天愛人」が聞いて呆れる陰湿な行為と終生続く藩主に対する文字通り封建的で卑屈なまでの忠義ぶりも併せ鑑みれば、彼が人民主義とは全く無縁の、大久保と同じ様な因循な国権主義者であったことに間違いはあるまい。政治から離れた場での彼の情け深さは認めるにしても、その彼が政治的思惑からこんなにまで神格化されているところに、明治以来の、叩き込まれ洗脳された変わりようのない日本人の意識の怖さを感じるのだ。吉田寅次郎と同じ様に、その良し悪しは別として道半ばで死んだことが都合よく祭り上げられ、さらに誇大に美化され、その後の天皇制軍国主義国家の正当化への思惑にぴったりの人物であった事は言うまでもない。しかし本当のところ、神格化された西郷よりも、その西郷の反乱に参加して戦死した熊本民権派の宮崎兄弟らが、当初そのことの矛盾を問われた時、「先ず西郷に国権主義の大久保を叩かせ、それから同じ国権派の西郷を討つ」と言った話しの方に、情だけに流されるのではない理の通った日本人も当時すでに存在していたのだと、同じ日本人としてはそちらのエピソードの方が誇らしく、些かなりともほっとするのだ。

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