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2019年6月

句・短歌から察する日本語の不思議さ

芸術・文学とは言わぬまでも、微妙で繊細な人間の心の内を、わずかな文字数と音・訓の巧みな使い分けで自己表現しようとする俳句や短歌などは、表意文字である漢字をうまく借用しつつ、しかもかな文字を活かして、豊富な語彙を有し言葉の持つ独特な雰囲気を大切にする日本語にしか出来ない、表音文字主体の外国語には絶対見られない、日本独特の言葉文化であると言ったら大仰に過ぎるだろうか。さらに、その俳句や短歌を嗜むひとにはどことなく気品と風格も感じられるなどと述べたら、それこそ俳句第二芸術論的観点からの批判ではないけれど、今度は買いかぶりで少々褒めすぎであると言われるかもしれない。でも程度の差はあるとは言え、多くの日本人もきっと同じような感覚を持っているのではなかろうか。

 

唐突にどうしてそのように述べたかというと、些細なことではあるけれど、以前からちょっとだけ気になっていたことがあるからだ。よく獄中につながれている死刑囚や長期服役囚などが、冤罪を主張し無実を訴えたりする際に、むろん弁護士の特別のアドバイスがあったり、彼らに何かの思惑があったりする訳ではないのであろうけれど、何故か、勿体をつけるかのように句や歌を添えたりすることがけっこう多いからである。そんな時、日本語の持つ独特の響き・雰囲気というのであろうか、或いは外国語にはない語力とでも言ってよいのであろうか、又そんな風に思わせることが本来の目的でもないのであろうが、おかしなことに、その冤罪を訴えている死刑囚や長期服役囚に風雅・高尚といった趣きや雰囲気を与え、人間的にもどこか厚みが増したように感じられ、この人本当は、そんな悪いことの出来る人ではないのではないかと感じられてしまうから不思議なものである。それまで抱いていたマイナスイメージもどこかに吹き飛んで、実際のところ、どんなに怪しい人のものであっても、句や歌を添えられた無実の訴えにそれらしく説得力が感じられたりするから、句や短歌に対する日本人の思い入れというものは実に不思議なものである。そう考えると、やはりそれが彼らの思惑であるという穿った見方も出来なくはない。そう言えば、どこかのテレビの人気居酒屋番組に出演している御仁の、一見しただけでは粋とは到底言いかねる、がさつこの上ない飲み方食い方であっても、いや本来の酒飲みからすれば「俄か酔人」と言った方がむしろピッタリなのだけれど、最後にそれっぽく雰囲気のある一句が画面に映し出されたりすると、逆にその落差ぶりにも妙な感興が湧いてきて、彼、そんな趣味人だったのかと妙に納得し、本当の人間性は分からぬが、それまでのどう見ても野暮としかと思えぬ飲み方にも意外な趣きと人間味も加わるような心持がするから、やはり句の効用は絶大かつ不思議なものなのだ。

 

まして日本では、昔から清水宗治しかり浅野内匠守や吉田松陰もしかり、いくさに破れたり罪をこうむったりした武士などが、まさに腹を切り首をはねられる瀬戸際・土壇場になっても、自らの潔さを示すためなのかどうかは分からぬが、もっともらしく辞世の句などというものを必ずといっていいほど残してきたのだから、詠歌や句作に対する思い入れ、これはもう日本人のDNAに完全に刷り込まれていると言っても過言ではない。それでも歴史上、藤原定家を筆頭にして、どんなに有名な歌人や俳人であっても、その作品から抱くイメージとは正反対に、実際には人柄や人間性に何かと、いや大いに問題のあったひとも結構いたようであるから、よくよく注意されることも肝要である。平べったく言わせてもらえば、それがたとえ享楽的で低俗的な作品であれ、真理の追求とは言わぬまでも最低限の社会的テーマの追求と社会的主張が根底にあって、作者の思想それに人柄とか人間性、つまりその人の実相が作品に大きく影響してくる小説や評論と違って、詩を含めて俳句や短歌では必ずしもそれは必要では無く、むしろ情緒が大いに関係しながら、人間の持つ一時の激情や情熱の発散をそのまま作品として表現することが出来るからであろう。だから逆に、「えっ、あんな悪党が?」とか「本当は、とんでもない性倒錯だったんだ」などと別の感興をもよおすことだってある。実際、そうでなければ面白くない。だから中国などでも春秋戦国期以来、今に至るまで、逆にその否定的印象とは別に詩人としての才能を持った歴史上の権力者や悪役イメージの人物は結構いたようであるし、ヨーロッパ初の本格的詩人と言われた中世フランスのフランソア・ヴィヨンに至っては強盗犯罪や淫蕩行為を繰り返したとんでもない大悪人であった。さらにその後、特徴的に19世紀ヨーロッパ詩人の中には、まるでひけらかすかの様に淫蕩を繰り返したバイロン、それにベルレーヌとランボウといった倒錯的で反道徳的関係を結んでいたエキセントリックな詩人たちも結構いたようであるから、そのように考えると歌が巧く句が達者であっても、必ずしも世間で言うところの好人物で善人とは限らないのである。しかしながら、だからと言うわけではないが逆に人間的に問題のある人でも、詩作とは言わぬまでも俳句のひとつでももひねれるようになれば、人生得になっても別に邪魔になって損になる事もあるまいから、我々も詠歌・句作技術の習得に大いに励むべきなのかもしれない。その短さゆえに、素人でも万人の胸を打つ出会い頭の大ホームランをかっ飛ばす可能性だってあるわけだから、その言語の持つ特性を生かして日本人は日々大いに嗜むべきなのであろうか。

 

 

それにしても、たった15文字あるいは31文字の中で、余分な語を削ぎ落とすかのようにして、それでいて微妙な心のひだを十分言い表せるのだから、日本語も本当に不思議な言語ではある。本居宣長などの昔の国学者が、思い込みの強い国粋主義的心情からであったとしても、ことさらに言霊などと強調したことはあながち根拠の無いことでも無かったのかもしれない。細やかで豊富な語彙の表意言語と、日本人から見たら少々粗雑にしか感じられない表音記号言語の差なのかもしれないが、セム文字以来のアルファベットの単純な組み合わせに過ぎない欧米言語では、先ずこうはいかないのであろう。つまり、人間同士が共有する概念としての対象を、アルファベット26文字の順列組み合わせで瞬時に記号化して共有する行為は、対象概念がイメージ出来てさえしていれば、例えばウェブとかクラウドなどといった独特のインターネット言語のように、まわりくどくなく簡単で便利ではあろうが、やはりどこか味気ない。それどころかNATOやTPPと言った頭辞語の様に、前提となるそれまでの蓄積概念が無いと、真意どころかイメージすら伝えられない。だから当然、人間の持つ微妙な感情を言葉だけで、つまり数十字だけで表現することには当然不向きで無理があると言ってもよいのだろう。

 

もちろん俳句や短歌などのような字数制限のある極少表現は無理としても、詩や小説などの文学表現はもちろん、歴史書や科学書などにおける記述表現は、字数制限の特段設けられていない日常記録文化として、単なる言語伝達機能以上に機能し、文芸科学としてもそれなりに洗練され進化発展して来たのであろう。それどころか、ぼやけたイメージを概念化して表現できる欧米言語は、その特質から哲学などの表現にはむしろ最適であったと言っていいし、逆に精緻に意味を特定する日本語ではまわりくどい表現になってしまい、哲学は難解な学問であるという思い込みを日本人に抱かせてしまった。一方で、句・短歌により近い西洋詩であっても、表意言語に慣れ親しんだ日本人には、それさえも韻文ではなく散文詩という形体をとらなければ、その味わいらしきものが具体的に分かりにくい。そんな訳だから、世上、欧米の大詩人と言われる人物たちによる作品であっても、その原詩を辞書を片手に懸命に読んでみたところで、特に英仏語的表現になじみの薄い日本人には、どことなく味気なく感じられ今ひとつ雰囲気がつかめない。しかしながら、上田敏や堀口大学らの教養ある優れた文学者達による絶妙な味付けと日本語独特の味わいによる意訳で、バイロンはもちろん、ベルレーヌとランボーとの微妙な関係を含んだ韻文でさえ、そしてハイネにカール・ブッセ、それにワーズワース、さらにシェリーやオスカー・ワイルドなどの作品を、それはスコットランド民謡をどこか懐かしげに聴くひとのように、日本独自の詩であるかの如く錯覚して、おそらく原詩以上の雰囲気で堪能できるのであるから、そういう意味では我々日本人は本当に幸せである。「逆はかならずしも真ならず」と言うけれど、反対に、日本の句や短歌や抒情詩に含まれた、日本人独特の雰囲気と微妙な味わいを外国人はどのように理解することが出来るのであろうか。少ないボキャブラリーで、一体、語彙豊富な日本語の味わいを理解し堪能出来るのであろうか。いや、そもそも日本文学そのものと言っていい川端や谷崎や徳田秋声の小説と、それは文章的味わいも当然そうだけれど、日本人から見れば文章力の上手い下手の巧拙も含めて対極に位置する、英文を直訳しただけの様な(筆者にだけ?)村上春樹の小説との違いが、はたして彼らに理解出来るのであろうか。そういえば、卑近な例ではあるが映画の題名にしてからが、外国映画の原題は何とも味気ないことが多く、逆に気取りすぎではないかと思えるほど雰囲気たっぷりに変えられた、日本語での外国映画タイトルとのギャップに思わず戸惑うことも多い。たんなる映画タイトルからしてこうなのであるから、逆に、彼ら外国人はどのような思いで自国の詩を味わっているのであろうか。別の意味で興味が感じられ、このあたりのことは、日本語と同じ程度に英仏語を操れる人に、理屈ではなくその微妙なニュアンスをうかがってみたいものである。万葉以来の、侘び寂びと言った日本人独特の美意識は、侘び寂びが先にあったのではなく、その日本語独特の性格に起因していることは間違いあるまい。いや、その辺りの事情はよく調べた訳ではないのでいい加減な事は言えないが、いやおそらくそうであろう。

 

ところで「柳多留」などで江戸時代に多く詠まれた川柳などには、あの俳句や短歌などのように自分を飾ったりお高くとまったりしたところがなく、洒落を巧みに利かせながら、また無駄な言葉の修飾もなく、そこに描写された日常のさりげない情景が、今になっても当時のままの息遣いとともに生々しいイメージで蘇ってくる。時代の雰囲気と当時の人間の生活の臭いが、俳句や短歌以上に、つい昨日のことのように伝わってくるのである。言葉から読み取れるユーモアが不思議なリアリティをもたらし、気どりの無い人間の心の内が分かって面白い。そう、たった15文字の中に素直に詠み込まれた当時の人物・風景が、時代を超えて、まさに今のことのように伝わってくるのであるから本当に感動である。そこが日本語ならではの、生きた言葉の何とも言えぬ魅力なのであろう。まさに言霊と言えば言霊である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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