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2019年4月

分りやすい天皇制批判 万世一系という名の幻想

                                           1   分かりやすい天皇制批判

 

昭和天皇崩御の頃の、それこそ日本中を覆い尽くしたかの様な一億総自粛ムードではないにしても、間近に迫った現天皇の生前退位やそれに絡んでの改元問題などと、何かと鬱陶しい昨今ではある。実際問題として、西暦と元号の併用という今の制度のままでは、これから先天皇が変わるたびに、益々もって日常生活での暦の読み替えやひとの年齢計算が、そしてそれ以上にビジネスでの使い分けも煩わしくなって行く訳だから。しかし、元号制度がもともと中国王朝の模倣だったとは言え、それでも漢字同様に我が国に深く根付いた歴史文化には違いないのだから、たとえ天皇制の政治的権威付けと緊密に結びついて来た経緯があったにしても、それをもって、今すぐに廃止しろなどと野暮なことを言うつもりは毛頭ない。これから先の運用の仕方だけが問題なのであって、だいいち国論を二分するほどの大した問題でもない。ただ一部の特権的な輩の間で、極めて恣意的に元号名が決められるのはひどく不愉快な話だけれど、逆に国民投票で決めるほどの大した問題でもあるまい。

 

ただし、その元号と密接な関係にある天皇制というデリケートな問題になると、合理的かつ条理的基準でしか物事を判断できない人間にとってはそうもいかない。けれど、タブーに関わることで自分の意見を述べたり、腫れ物に触ることによって生じる他人との争いが苦手な日本人は、腹の中では天皇制はちょっと変だよな、いや頭の中でよくよく考えてみてもやっぱり納得がいかない制度だよなと思いつつ、それでもメディアはもちろん世間の人も誰ひとり、それも憚るように、反天皇制的言辞は勿論の事、身分差別というこの単純明快な矛盾をさえ口にしないものだから、やっぱりそれを気にしたり口にしたくなる自分ひとりだけが変わっているのだ、それをしない世間は常識的でそれが大人なんだなどと自ら納得させるように心に言い聞かせて、そのことについての不平や不満や疑問を一切面に表わさない。もちろん口にも出さない。皇室問題に関しては、大体が日本中いつもそんな調子だから、その肝心の天皇制なるものの実体が何たる物なのかをはっきり理解している日本人が、もちろん世論調査も行われぬぐらいだから、果たして今の日本にどの程度いるのかさえ見当もつかない。せいぜいが一部メディアによって、しかも世間がいつも油断をしている隙に、唐突に「国民のほとんど多くは皇室に親しみを感じている」などと勝手なイメージ操作で、それもどこでどうやって調べて来たのか根拠も示さず、一方的で都合の良いニュースを流す程度である。さらには、そのことに対する世間の反応は極力曖昧にして、大方の国民は概ね了承しているかの様に、そして親しみを感じていない人間はあたかも非国民か変質者でもあるかのように世間の雰囲気を誘導する。では、「国民の多くが親しみを感じなくなったら、皇室もおしまいになるのですか?」と、つい突っ込みを入れたくなる程度のあまりに幼稚で根拠の薄い、結局は宮内庁の維持と天皇制護持のための、体制メディアによる都合のよいプロパガンダなのである。

その程度の世間の雰囲気であるから、自分の意見は持たず他人の目だけを気にする多くの日本人は、当面、自分自身の生活に差し迫って具体的影響が出て来ない限り、今ある天皇制に対してはそれほど意識せず、何となく曖昧模糊とした気分でいるのではなかろうか。反対するのであれ支持するのであれ、他人の意見と世間の動向、そしてその時の気分次第でどちらにでも転んでいく様な、ただ何となくと言う程度の認識しか持ち合わせていないのが実情であろう。もっとも逆に、その方が今の日本社会にとっては、あえて波風を立てるよりも全てに都合がよいのかもしれない。何故ならば、体制を仕切る政権や宮内庁にしてからが、戦前の偏狭で狂信的な皇室崇拝者の数が増えて、せっかくうやむやにされていた昭和天皇の戦争責任と敗戦責任が逆に蒸し返され、さらに身分制度の根源的な矛盾が露呈するよりは、せいぜいが一般参賀で、それが奇特で幸せな人たちだけであったとしても、どこかの独裁国家の人たちと同じ様に無邪気に小旗を振っていてくれさえすれば、つまり今のままの大方の日本人の無知と無頓着ぶりとで社会全体がただ何となく平穏無事に過ぎていってくれさえすれば、当面はとりあえずそれでよしと思っているに違いないのだから。ただでさえ、「大嘗祭は皇室の私的行事である。そこに公的経費が支出されるのはおかしい」と言った意味の発言が、当の皇室関係者からなされる時代になっている。ある日突然、何かのきっかけで憲法論や元首論以前に、国民が宮内庁も含めた皇室予算の少なからぬ金額への不平不満をあからさまに口にするようになったり、身分差別という天皇制の持つ実に単純な矛盾に日本人自身が気付いて声を荒げるようになったならば、そして今の天皇制を辛くも維持している、日本人の心の微妙な平衡感覚が崩れたならば、つまり、お猿さんや未開の土人でいることから脱却して、近代人らしく真っ当に賢く考えるようになってしまったなら、おそらく今の形の天皇制もそう長くは持つまいから。

しかし、つくづく考えるに天皇制も、それへの歴史事実の正しい認識と客観的事実に対する理解に基づいて支持されているのならまだしも、何となく曖昧な根拠と社会の雰囲気、そして日本人の近代的合理精神と問題意識の欠如を前提として成り立っているのだとしたら、実に寂しい限りではある。いや、そもそも如何なるものであっても、「一君万民」などと正しい歴史認識に基ずく身分制などこの世に存在する筈はないのだ。人間差別という、その身分制的側面をうやむやにしようとしてか、逆に奴隷制度、つまり黒人差別の伝統の上に成り立ってきたという歴史的事実を忘れたかのようなアメリカの上流社会を突拍子に持ち出して来て、そこに属するエリートアメリカ人たちの多くも憧れ尊敬しているからと、鼻につくほどの厭らしさと白々しいコメントイメージで、ことさら日本のメディアが喧伝し吹聴する英王室も含めて、それはインドのカーストと五十歩百歩の関係に過ぎないのだ。

 

                  

                     2 万世一系という名の幻想

ところで、全く持って馬鹿馬鹿しい限りではある。神武・綏靖・安寧・懿徳それに考昭・考安など架空であろうとなかろうと全くお構いなく、全国民がひとり残らず歴代天皇名の丸暗記を強要されたのを手始めに、時の権力者に成り上がった薩長のイモ侍・イナカ侍たちによって徹底的に皇室崇拝を叩き込まれ、挙句その後、勝手に天皇の赤子とされ、剰えその「御真影」なるものまで後生大事に拝まされてしまった戦前の日本人はもちろんのこと、そのくびきから解放されたはずの今の日本人の中にも、未だその催眠状態から完全に脱却しきれずに、北朝鮮軍事パレードもどきの皇居旗振り参賀などにはしゃぎまくって、それまで思い込まされてきた「万世一系」という字面と言葉の重々しそうな響きから、皇室制度つまり天皇制は、神武以来、嫡流の長子相続が連綿と続いてきたものと頭から思い込んでいる人達が結構いるようだ。さらに最近の女性天皇論の賑わいぶりに惑わされて、逆に神武や神功という名前さえ区別出来ず、推古も皇極も後桜町も知らず、いまだ男子だけの相続が延々と続いてきたものと思い込んでいる人たちも多いに違いない。しかも何かの折に気分が高揚したりすると、すぐ偏狭な愛国者になり下がってしまう情緒的日本人の中には、ちょっぴり誇らしげに、「我が皇祖皇宗、国を肇るに」とか「我が国は、万世一系にして」などと、いかにもそれっぽく口にしてしまう連中も意外と多い。それどころか天皇制護持をライフワークに掲げる右翼歴史学者の中には、、それをどこで仕入れてきたのかは皆目分らぬが、神武のDNAなどと言う誰にも考えつかない想像上の証拠品を突然持ち出して来て、男系男子を皇位継承の必須条件として、もっともらしく公然と女性蔑視的発言を繰り返す輩も出て来る始末だから全く手に負えない。

 

しかしながら北畠親房や徳川光圀といった生まれながらの尊王論者で無いにしても、多くの日本人が記紀はもちろん、史書や研究書を少しでも読み込んで真っ当に解釈して理解出来るようになれば、そして天皇名の丸覚えだけでなく、歴代天皇の皇位継承の経緯とそれぞれの事績に少しでも理解を深めて精通すれば、彼らの様な先天的に生まれついた熱烈な尊王主義者とは全く逆に,天皇制の内実がそれ程畏れ多いものでもなく、つまり万世一系などとは全くかけ離れた代物に過ぎず、また現人神でもなく、それどころか全く俗に流されやすい極めて普通の人間であった事にすぐ気付くはずである。天皇にまつわる歴史文書や資料が、公家や一部の武士と言ったごく少数者に独占されていた昔と違って、それどころか戦前戦中の徹底的な言論統制から解放されて、普通の国民がその事実を知って正当に判断出来る環境にあるのだから、少しでも多くの人間がその気になれば、すぐにその馬鹿さ加減も分かろうというものだ。早い話が、その気にならない国民の無知と怠惰に付け込んでの今の万世一系なのだ。つまり、天皇制を維持しているあの仰々しさは、99パーセントの無知と無関心の上に成り立っていると言っても過言ではない。

だからその気になって万世一系の内実を探ってみれば、それの実態はすぐに分かろうという代物に過ぎないのだ。つまり、いつの時代にあっても順当な皇位継承者がいなければ、そこに神威的アマテラスのご託宣があった訳でなく、実に人間臭い利益関係者や小知恵の利いた連中が、いつの間にか何処から適当に遠い縁戚縁者を見つけ出してきては、もっともらしく辻褄を合わせていたに過ぎないという歴史的事実に容易にたどり着くのだ。今風に有体に言えば、養子縁組に養子縁組を重ねて、何とか家名だけは保って来たと言うところであろうか。それさえもどうしようもなくなった時に、窮余の策として、例の刃傷沙汰で有名になった富岡八幡のきょうだい宮司よろしく、極めて身近の女性縁者を皇位に担ぎ出し、取りあえず適当な男子皇位継承者が現れて来るまでの繋ぎとして、無理やり系図上の点と線だけを取り繕って来ただけに過ぎない。史上、女性天皇による重祚が二度も行われたということは、危機に瀕し続けた万世一系を取り繕うためには、なりふり構ってはいられなかったという何よりの証左である。女性天皇論で賑わった最近の皇室問題は、まさにそうした天皇制の抱える脆弱性と血縁性の矛盾を露呈したものであった。そうした事実を見据えると、家柄や血筋に拘り続ける人たちは別にして、果たして、DNAまで持ち出して維持しなければならぬ必然的身分制度なのだろうか。第一に神武そのものが架空の人物であった事は、学術論争の必要さえ無いほどの歴史的事実なのだから、今さらDNAも何も有ったものではないのだ。皮肉なことではあるけれど、そこまでDNAに拘ると、実際には、考えらぬほどの膨大な数の神武の男系男子が日本中に溢れかえっていくことになる。

それでも確かに、その異常すぎるほどの近親婚と血縁婚の繰り返しで、あの天皇家独特の風貌とDNAが出来上がって来た事だけは誰にも容易に想像はつく。件の歴史学者の主張は、あくまでも万世一系が連綿と正しく続いているとの仮定の上での理屈なのであろうが、しかし、そんな遥か昔のDNAなど、今さら持ち出す事自体奇想天外に過ぎる。なりふり構わずにとは、まさにそんな事を言うのであろう。その伝で行くと、存外、戦後次々に現れた自称天皇たち、中でも南朝後亀山天皇の末裔を名乗る「熊沢天皇」の方が、後述する南朝正閏論から言えばもっともらしく実証的であり、化学的に調査したらDNA的にはそちらの方が純粋でより神武に近かったりする可能性も有る訳だ。しかし、それはともかくとして、先祖がいて初めてその子孫が存在する訳だから、大王なのか九州の豪族首長なのかは分らぬが、誰かそれらしき最初の人物が当然存在した訳だし、神武と思しき人物に比定されてしかるべき、つまり初代と目される特定の先祖は当然居たには違いない。しかし残念ながら、春秋や史記や三国志などの様に、記録すべき肝心の歴史文化が、残念ながら非文明国でもっとはっきり言えば野蛮国だったその頃の我が神国日本には全くもって存在していなかった訳だから、その特定は至難の業である。でも逆に、それはその後の天皇制絶対主義者や尊王主義者には非常に好都合だったと言わざるを得ないのだ。何故ならば、文字が存在せず史実が明るみに出て来ない以上、それまでの歴史とそれからの歴史を、何とでも都合よく好き勝手に作り替えることが出来た訳だから。

 

                 3  二百五十年にも満たぬ閑院宮による現在の天皇家

ところで、実はそれほど遡らずとも、天皇制の歴史と内実を窺い知ることは出来る。要するに早い話、今の天皇家にしてからが、18世紀後半、明治天皇の曾祖父にあたる師仁親王が傍系の閑院宮家から、正当で必然的な理由と言うより、つまり人物評価や血縁的優位性を根拠にした訳でもなく、当時たまたま独身で身軽な立場にあったと言う非常に分かりやすく軽い事情だけで、既婚者の長兄を飛び越え血脈の絶えた天皇家に養子として入り、既に亡くなっていて跡継ぎがいなかった後桃園の後を襲って119代天皇(光格)になったに過ぎない。ちなみに、閑院宮家の創設は天皇家の断絶を危惧した新井白石らの力に負うところ大であり、後年薩長の田舎侍・芋侍によって徳川家が朝敵扱いされる理由などさらさらなく、むしろ天皇家存続の恩人なのである。

ところで、かつての光仁天皇や光孝天皇にしても、光の字がつく天皇はいづれも本家の血だねが絶えた時、苦肉の策として何代にも前に遡り、とんでもないところから天皇に迎えられている。そう言う経緯だから、当然光格の父親も祖父も天皇では無かった訳だ。分かりやすく言えば、オリンピック贈賄問題で、今よくメディアを賑わす竹田JOC会長が、女だ男だと言ってたまたま皇位継承者がいなくなかった時に、政治的環境と系図上の理由だけを根拠に何代も遡って、ことさらに神格化されて天皇になるようなものであった。だから、そんな歴史的経緯を厳密に考えれば、現在の皇室はたかだか二百年ちょっとの伝統でしかないということになる。北朝鮮の金王朝でさえ直ぐに追いつく、これが万世一系の実体と歴史である。つまり、世界に誇るべき我が神国の天皇制と言うけれど、二千年この方ずっとこの様に、同じ方便で広義に広義の解釈を重ねて、無理やり維持して来た天皇制という制度の為の天皇制なのだ。光格もその辺りを意識していたのであろうか。それまで数百年も廃れていた大嘗祭など、天皇家の私的行事を無理やり宮中行事として復活させ、さらには冷泉以降800年近く用いられなかった天皇号も復活させ(歴史事実として、天皇ではなく冷泉院とか言うように)、しかも天皇でもなかった自分の父親に太上天皇の称号を強引に与えようとして、いわゆる尊号事件を引き起こし、天皇としての自らの権威付けに躍起になっている(天皇号が正式に認められたのは明治以後に過ぎない)。だからその甲斐あってか、取ってつけたようなそうした皇室の私的年中行事や慣習をも、今の日本人は長い間滞ることも無く、二千年間連綿と続いてきた日本独自の公式伝統行事と思い込んでいる。俯瞰してよく観察してみれば、それが歴史上の僅かな一定期間に過ぎないことは明確に分かるのだが、人間はどうしても自分の生きてきた時間だけに遮られて、昔の事物を曖昧に判断する傾向がある。それは千年二千年の歴史であったとしても、冷静に捉えてみれば誰にでもすぐに気付く客観的事実なのだが、その俯瞰的視点を欠いてしまうと、過去の歴史の流れが今の壁に遮断されて全く見えなくなってしまう。

さらに悪いことに、現代の日本人もまだその多くは情緒的にしか歴史を認識しようとしないから、たとえ明治以来の恣意的で偏った薩長史観の残滓であると薄々分かっていても、それにさえ少なからぬ影響を受けてしまう。つまり、それがどんなに荒唐無稽な神話やお伽噺めいた作り話であっても、日本人として何となく耳に心地よければ、イメージだけで普遍的な事実であったかのように簡単に思い込んでしまう。今でもそんな有様なのだから、偏狭な民族主義と天皇制軍国主義が猛威をふるった戦前の事情は容易に想像がつく。封建制度の崩壊という、本来は近代国家の幕開けが訪れていなければならなかったはずの、明治から敗戦に至るまでの数十年、逆に当時の日本人の多くは、王政復古という美名のもとに、そうした歴史的事実をも理解させられずに、また目を遮られるようにして、架空を含めた歴代天皇名までうやうやしく丸暗記させられていたのだ。要するに明治が始まるまでの数百年の間、ほとんど全ての日本人が、天皇に対してはある意味健全な意識の持ち主であったにも関わらず、封建制度が崩れた途端あべこべに、それまで山県大弐や蒲生君平や吉田松陰といった、何が何でも御所のミカドを特別扱いして有難がる風変わりな人物を除いては、全く縁の無かった熱烈な尊王主義者に、薩長の田舎侍芋侍どもによってひとり残らず仕立て上げられてしまっていたことになる。今、冷静に考えれば滑稽な話ではあるが、明治以降の国民はそういう状況に疑問を抱かず、いや疑問に至るまでの知識さえ有していなかったのかもしれないが、逆に疑問を抱いた人間を非国民扱いしていたのだから、実に奇妙で不可解な時代ではあったのだ。有体に言えば、日本人全員が歴史の自然な流れに逆行して生きる反動の時代であった訳である。

 

                   4 大ざっぱで分かりやすい天皇史

それはともかく、古事記や日本書紀などを読みながら歴史を遡ってみれば、神代七代はさすが荒唐無稽に過ぎて、よほど奇特な人は別にして、いくら何でもそれを歴史的事実と考える人は今ではさすがにいなくなった。けれど戦前日本では、聖書や仏典の様に宗教書としてならばともかく、国家がその荒唐無稽話しを歴史教育の中で半ば事実の如く国民に信じ込ませ、しかもそれを本当に信じ込んでいた人たちも結構いた訳であるから、考えてみれば滑稽さを通り越して空恐ろしい時代ではあった。しかし、そのことは別にして記紀はそれなりに、旧約聖書同様に英雄譚や伝承伝説と割り切って読めば実に面白い。信憑性はともかく、いや歴史事実はそれほど無いが、何か一定の歴史上の比喩を暗示しているのだろうから、その限りにおいては存在価値のある、歴史的資料としてもそこそこの意味はある。だが、それを持ってまともに歴史を論ずるにはまず無理があろうというもの。しかし戦前日本は,、その荒唐無稽話しをほとんど全て歴史的事実として、まともに国民に押し付けていた訳であるから、ボーッとしていた人達はともかく、常識的知性の持ち主には精神的に到底耐えられない時代でもあったのだろう。

その程度の万世一系ではあるけれど、とにかく昔を辿ってみると、神武から開化は甚だ実在性が疑われるから時代だから端折らせてもらうとして、まともに論ぜられるのはまあ10代目の崇神あたりからだろうか。おそらく神武の東征神話になぞらえて、この辺りの渡来系勢力が九州近辺から出て来たことは十分考えられるが、それは推論だけで確証は無い。そしてその後、垂仁、景行、それに日本武尊を絡ませて成務、仲哀、応神天皇と続くことになるが、この辺りの繋がりが一番怪しく胡散臭い。何故ならば、応神は熊襲に殺された仲哀と神功皇后との間に生まれた、つまり三韓征伐の時の神功の腹の中にいた胎中天皇ということになっているけれど、それが実に辻褄が合わないのだ。つまり、父親の仲哀の死亡時期と応神の生まれた時期が馬鹿馬鹿しいほど合わないからだ。それでも神功と息子の彼が実在したとすれば、その時によく名前が出てくる武内宿禰あたりが本当の父親とも考えられる。もっとも竹内宿禰自体も実在を相当疑われる人物だから確かなこととは言えない。逆に言うと、戦前当たり前の様に教えられていた三韓征伐などの言い伝えは、それほどいい加減な話しなのであった。おそらく、記紀やその他の記述などから類推すると、仲哀天皇の皇子であり応神の兄とされる二人の人物が殺されたこの時期に、崇神王朝と応神河内王朝の交替があったことは十分考えられる。このあたりは諸説ありだから、もちろん細かいところまで断言は出来ないが。しかし、それ以前の4世紀あたりに、広開土王の碑文などに記されているように、おそらく崇神朝時代の王か九州地方の豪族たちが、百済からの支援の求めに応じて朝鮮半島に出兵を繰り返していたのは確かであろう。その後、倭の五王の時代を経て、種々の暴虐行為で有名な武列の死で応神朝は取りあえず終焉するのだが、この後を引き継いだ継体朝の成り立ちが実に興味深い、と言うか滑稽ですらある。つまり、今の天皇家が確実に遡ることの出来る最も遠い先祖縁戚なのであるが、最初に皇緒の意向を打診された時のおほど王、つまり後の継体天皇の対応が、「白馬に跨った」などと、よくある王位伝承にまつわる権威的かつ伝説的な物語とはかけ離れていて、間が抜けているとしか言い様のない経緯なのだ。伝説を創りだす余裕も無かったほど、事態は切迫していたのかもしれない。

彼は既に老境に入っていた若狭の地方豪族であったのだが、迎えにやって来た大伴金村や物部麁鹿火らの有力大和豪族が信用出来ずに、若狭の山奥に逃れ隠れて、暫らくの間躊躇して王位につくことを拒んでいたぐらいなのだ。それどころか、それに先だって皇位の継承を要請されていた、継体よりもより正統性の強い仲哀5世孫の倭彦王などは、それ以前に恐れおののいて何処かに逃亡してしまっている。つまり万世一系などと大仰に言っても、始まりは所詮その程度の、全く有難みも威厳も感じられぬ存在に過ぎなかったのだ。当時の有力豪族にとって大王の地位など誰でもよかったのであろう。そのうえ、継体が皇位に就いてからも他の反対豪族の勢力は相当強かったらしく、二十年近く大和の地に入れないでいたのだ。しかも、彼は応神天皇5世の孫と取り敢えずはなっているけれど、それが本当だとして応神は実に二百二十年前、11代前の大王である。まさに赤の他人とはこのことを言うのであろう。悪逆の新皇と貶められた将門だって、桓武天皇5世の孫であった。政治環境や社会状況のちょっとした綾だけで、後世の歴史的評価に、これほど天地の開きがある訳だ。それでも継体も将門もDNA的には全く同じレベルの話しであろう。戦後の混乱期、既述したように「熊沢天皇」などといわゆる自称天皇が全国に次つぎに出現したけれど、DNA的には存外、的外れでは無かったのかもしれない。いや実際は、より神武に近かったのかもしれない。それはともかく、継体が今の天皇家の祖としても、実際1500年の歴史は有るわけだから、それはそれで歴史的学術的存在理由は当然有るし、更なる学術研究も必要になってくる。しかしそれでも、その内実と成り立ちは前述したように、無理やり遠い子孫縁戚を引っ張り出しての、それも女性縁者まで利用しての継承の繰り返しであったことに間違いはあるまい。だから、この伝でいくと北朝鮮どころか、どこの馬の骨か分からぬ一族であったとしても、全て万世一系になると言う代物なのである。つまり事実上の皇位が絶えるたびに、遥か昔の先祖が一緒であったと言う程度の理屈で、既に赤の他人になりきっていた遠い縁戚を連れてきては、中には嫌がる者もいたであろうに、それでも皇位を無理やり継承させていたに過ぎない。

さらに加えて、その後の歴史の中に忽然と現れる、南北朝時代と言う文字通りバサラの時代をめぐっての、どちらの系統の皇位継承行為が正統であったかという南北朝正閏問題が浮上してくる。これはもちろん南北どちらであったにしろ、差別という根源的な矛盾を含んだ政治制度と言うことでは五十歩百歩なのだけれど、平等思想や人権意識など当然皆無の時代であったから、それはひとまず横に置いておいての話しになる。今じっくりと、天皇制という政治的身分制度の歴史の経過を俯瞰して客観的に精査するならば、情緒的で非合理的根拠は別にして、つまり北畠がどう詭弁を弄しようとも、そして楠木がいかに忠臣ぶりを演じようとも、北朝の正統性は揺るぎのない歴史事実なのだ。けれど、その極めて明白な事実も、昔は単純に雰囲気や状況によって、そしてこれが一番大きな要因であったけれど、その時代の政治的思惑を含めた極めて恣意的で意図的な政治観が幅を利かせるようになっていく。そうした時代の流れの中で、その流れを利用するかのように、吉野朝が正統と言う歴史的実証と言うよりも歪んだ政治観が影響力を広げていく。政治観の違いと言ってしまえば身も蓋もないが、要するにひいきの役者を自慢しあうようなもの、好き嫌いの情緒的レベルでの話なのである。それでも幕末期までの数百年の間は、とりあえず北朝の正統と言う政治的には極めて合理的な見方が世の中の主流ではあったのだが、明治期に入るとそれが一転して不自然なまでに南朝正統論が優勢となり、極めて乱暴で恣意的な歴史観に変換されるようになっていく。

 

 

                      5  皇位系統の矛盾と怪しさ

本来、皇位継承という行為は正嫡や血筋の優先する血縁的身分制度なのだ。その意味では、兄の持明院統から繋がる北朝の皇位の方が弟の大覚寺統の南朝より正当性を有するのは、天皇家の系図を見なくとも分かる明白で一般的な歴史事実である。実際にその後、南朝は北朝に吸収されるようにして姿を消していくのだから尚更であろう。しかしながら、ここが大問題なのである。その後の歴史書は何故か悉く何故か、その部分を曖昧にしているから、未だ多くの日本人が現在の皇室が南朝系だと思い込んでいる。しかし皮肉なことに、当時あれだけ誹謗された北朝光厳系の子孫が、実際にはその後の天皇制の系譜を維持していたことになる。どういう腹づもりだったかは知らぬが、その末裔たる明治天皇が南朝を正統と宣言したことは甚だしい自家撞着ぶりを見せたことになる。彼自身、後醍醐の血は全く入っていないにも関わらず、そして当然彼もそれを知っていた訳だから全く持って不可解極まる。祖霊を冒とくしているとしか言いようのない実に破廉恥な行為なのである。彼を取り巻く政治勢力からの、つまり長州の中間奴の分際に過ぎなかった山形有朋らの、不敬な強要や恫喝が相当あったとしか考えられない。こうした南朝に対する勝手な思い込みと、明らかに歪んでいるとしか思えぬ恣意的で情緒的歴史感がかつてあったにも関わらず、何故かそれらを無視するような雰囲気が今の日本には、まだかなり漂っている。実際、無徳の後醍醐が今の皇室の祖先と思い込んで小旗を振っている日本人が多すぎるのである。つまり99パーセント以上の日本j人はその程度のレベルなのだ。

遡って考えれば、そうした雰囲気を代表すように、光圀が作らせた「大日本史」あたりが「三種の神器」を根拠にして南朝正統論の雰囲気を世間に蔓延させる契機になったのだが、一種のナルシズムとも言える新田義貞や楠正成の忠臣ぶりに対する過大評価や、逆に歴史の客観的経緯や合理性を無視したため、理論的根拠に欠け極めて情緒的なのだ。親政を目指した後醍醐天皇を英雄視するあまりに主観に流されて、まさに歴史を客観的に捉えられなくなっている。南北朝期の只中で「太平記」を読んで、その分かりやすく華麗な和漢混交文で描かれた劇的表現に酔いしれ、そして新田や楠らの卑屈とも言えるマゾチックな忠臣ぶりに多くの武士が心理的影響を受けて南朝ファンになっていったことは十分考えられることであるから、南朝正統論と言っても、その根拠は政治的なものばかりでなく、存外そのあたりの好き嫌いと言った情緒的レベルにもあったのかもしれない。その先がけとなった「神皇正統記」にしても、有徳政治と「三種の神器」の存在を挙げて南朝の正当性を主張していたけれど、有徳を説くのであればそれこそ堯・舜・兎の時代に倣って、徳を欠いた後醍醐よりも、血縁を無視して民間の中からより有徳の人物を探し出してくればいいのだし、それに先立つ後鳥羽天皇の践祚の時にも、「三種の神器」は安徳天皇と共に壇ノ浦の海に沈んでいて存在しなかった訳だから、どちらも苦し紛れのこじつけの理由にしかならない。そもそも南北朝での後醍醐天皇への評価が過大なのだ。たとえ北条政権打倒に功績はあったとしても、そして万が一大覚寺統に正統性があったとしても、そもそも彼自身その大覚寺統の中では、長兄の後二条天皇亡き後、その息子に引き継ぐまでのワンポイントリリーフに過ぎなかった傍流なのだ。本来、天皇家の筋目正しい伝統を重んじるならば、兄の子供に皇位を潔く譲らねばならなかったのにである。結局、いつの間にか正嫡の甥っ子からその地位を簒奪したまま居座っていたに過ぎない。本来は、歴史上よく出現する「非道の叔父」という、彼こそ逆の評価を受けてしかるべき天皇であったのだ。

しかし、その後の南北朝の歴史の中で、すっかり天下の不忠者に仕立てあげられてしまっていた足利尊氏らのお陰で、それも明治以降の僅かの間にだけ、すっかり正統のイメージが出来あがってしまった人物に過ぎない。楠らのマゾヒズムの極致とも言える忠臣ぶりからは対極にあった、現実主義者の常識人、足利尊氏にかぶせられた大悪人という作られたイメージの上に徳川将軍をなぞらえての、江戸幕府討滅のための明治新政府の口実作りであったのであろう。戦前日本では、この当たり前の疑問を呈して非難弾圧された人間のいかに多かったことか。それこそ、足利尊氏を正当に評価しようとして、無理やり大臣を辞任させられた人物もいたぐらいなのだ。今考えても空恐ろしい時代ではあった。この辺の事情を知ってか知らずか、「教育勅語にもいいところはあった」などとはよく言えたものである。楠公も忠臣北畠もその辺りの事情をどう判断して行動していたのか怪しいが、とにかく合理的根拠からの支持では無く、極めて情緒的であったであろう事は以上述べた如くである。つまり後醍醐は、世間のムードを上手く利用しながら、嫡流傍流を全く無視して出現した異常なまで自己顕示欲と権勢欲の強い、文字通り異形の徳を欠いた天皇と言うことが出来るのだ。

 

そうした歴史状況を経た後、つまり南北朝合一後から暫らくの間、日本人と言うよりも一般民衆の意識の中で、天皇家などは全く在って無きが如き存在に過ぎなくなり、政治的にも何ら意味を為さぬ様に変質していく。敗戦直後、天皇制の廃絶を危惧した勢力が必死になって、「天皇家があるからこそ日本人がひとつにまとまることが出来る」とか「天皇制が日本の共産化を防いでいる」などと、その存続の為にもっともらしく根拠不明のプロパガンダを必死になって展開したけれど、周知の様に南北朝以後の数百年、百姓などのほとんど大部分の民衆の意識の中に常にあったのは、それぞれの土地の直接の領主であったり公方様であったのだ。京の都にあっても、京童達が壊れて崩れかけた御所の築地塀の中に入り込み、当たり前の様に毬つきやかくれんぼをし、好き勝手に遊んでいた時代でもあったのだから、天皇がどこに居ようが居まいが一般庶民にはそんなもっともらしい政治的言い草(プロパガンダ)など全く無縁であった。しかも童たちを誰が注意するでもなく、また築地塀を修繕する金も無く放置されたままの、文字通り天皇不在の時代でもあったのだ。よく天皇制が二千年ほど続いてきたことに、世界にたぐい稀な我が国特有の君主制などと、やたら自意識過剰気味にことさら特別な意味をつけたがる輩がいるけれど、実際はこのように近年の五百年近くに亘って、ほとんど全てと言っていい日本人の意識から、そのような有難い天皇家の存在など消え去っていたのだ。しかし逆に政治の表舞台から消えていたことは、怪我の功名と言うのか、災い転じて福となすと言うのか、結果的に天皇制の存続のためにはよかったのかもしれない。仮に白河から数代に亘って続いた院政政治や後醍醐などの天皇親政体制が何かのきっかけで長引いていたならば、それこそ天皇家は民衆の怨嗟の的になり、逆に信長や秀吉的な武士の反逆にあって滅んでいたことは間違いない。何か神威的で必然的な理由からではなく、幸運と単なる歴史の綾で生き残ったに過ぎないのだ。そうした流れの中で、南北朝合体から実に数百年下って、幕末期にそれでも尊王の真情篤いご奇特な方々が、多くの庶民からはすっかり忘れ去られていたミカドを、歴史の自然な流れに逆行する様に、かつての若狭の山奥のおほど王よろしく無理やり築地塀の中から引っ張り出して来て、しかつめらしく権威づけ、尊王だ攘夷だ勅許だなどと都合よく政治的に利用したに過ぎない。戦前、雲上人として半ば神格化されていた明治天皇など、禁門の変が勃発した折には、怖さのあまり押し入れの中でガタガタ震えて隠れていたいう逸話があるぐらいなのだから、白馬に跨る大元帥閣下とか現人神など全く想像もつかない話なのであった。

 

そもそも、御所の中でガタガタ震えていた人間を引っ張り出して来て無理やり神格化した様な、その継体朝を連想させる明治の成り立ちを考えれば、その始まりは、米ソ対立の中でスターリンに連れて来られ祭り上げられたキムイルソンの北鮮王朝と何ら変わりはない。その程度のものをありがたがって感涙にむせんでいた戦前戦中の日本人の無知ぶりも実に滑稽で悲しくはあったけれど、新年一般参賀とやらで未だ嬉々として小旗を振っている、戦後現代の一部日本人の意識構造もあまり変わっていない。と言うよりも、まさにお目出度いとしか言いようがない軽いレベルの情景である。あのデブデブしい金ジョンウン将軍様を、軍事パレードで表面上は恭しく敬う今の北朝鮮の人たちと行動様式は何ら変わっていない。それよりも、腹の中では間違い無く「あの珍竹林の子豚野郎」と冷静に指導者を軽蔑揶揄している分、朝鮮人の意識構造の方が、心の底から嬉しそうに笑顔を浮かべて能転気に構えている一部日本人よりは、少しはまともなのかもしれない。しかし、そうは言っても客観的に考えれば、天皇制も内実はともかく、制度として形式的には二千年近く存続して来たことは確かであり、過去にあっては、その折々に様々な形で政治や社会に大きな影響を及ぼしてきたことも否定しがたい事実である。それはそれで貴重な歴史的意味合いもあろう。けれど、今さら我が子にいろはの当たり前の理屈を並べて説教をするようで、心苦しく甚だ恐縮なのだけれど、象徴制などとどんなに民主的な外形を装ってみても、やはり君主制は君主制であり、社会学的常識で考えればカースト制や奴隷制と同じ紛れの無い身分制度なのだ。本来タブーの無いはずの民主制度の現代にあっては、その近代的装いと雰囲気とでどんな詭弁を弄そうとも、それは在ってはならない身分差別であり人間差別なのだ。しかも論理的合理的根拠があるのならばともかく、その時その場の単なる雰囲気に大きく影響されやすい、文字通り歴史認識や合理性の欠如した情緒的人間たちの意思に多く基づいているのだとしたら、実にやるせない話しである。

 

 

                      6 天皇教への移行のすすめ

さらに精緻に観察してみれば、その身分制度を積極的に支持する人たちに共有する卑屈な精神構造は、たとえばオウム真理教や他のいかがわしい宗教にのめりこんでいる信者たちに、「身を亡ぼすのがおちだから、そんな怪しい教えからは早く離れなさい」と世間がいくら忠告するにも関わらず、どこまでもその教祖様を一途に信じて疑わないのと同様、ことさら「この国は」とか「国柄が」と気取った表現を好んで使いがたる人たち、つまり、世の中で血筋や家柄や伝統とかが一番大切だと思い込んで生きている人たちに、いくらそこに内包する不合理性や不条理を説いてみても、合理性や条理的思考の全く欠如した人たちには馬耳東風とかいうやつで、その情緒的思考を改めさせることは先ず不可能と思って間違いはない。だから、それは個人の信教と信条の自由、「蓼食う虫も好き好き」とかいうやつで済ます事にしても、他方これから先の国民生活の中で、或る日突然、国民全ての義務だからなどと言われて、無理やりその皇室の私的行事なるものに、戦前と同じ様に国民全員が付き合わされなければならなくなったとしたら、日の丸掲揚や君が代斉唱だけならまだしも、オウム信者から「ありがたいお人なのだから、麻原尊師を敬いなさい」と言われるのと同じくらいの馬鹿馬鹿しさで、合理的思考しか出来ない偏見や迷信から冷めた人間には、それはもう堪ったレベルのものではない。戦前日本の学校や社会で強要された、つまり、無宗教の人間はもちろん、どんな異教徒や他宗徒そして朝鮮人や台湾人などの被植民地の人間にも、御真影なるものを有難がらさせ神社参拝や皇居遥拝を強要して信教の自由や思想の自由を段々と奪っていった様に、そして今も幾つかの中東国家で行われている、例えばイスラム教の宗教的価値観をすべての国民に押し付ける狂信的宗教政治国家と同様、現代の姿を変えたその非合理性と馬鹿馬鹿しさに、様々な形態で付き合わされかねない人たちの抱く危惧や心情も公平に考えてもらわねば迷惑この上ない話しなのだ。近代の極めて合理的立場に立つ人間にしてみれば、小旗を無邪気に振って喜べるような奇特な人たちとは全く相いれない精神的領域にあるのだから、君が代斉唱程度なら別に洒落で済ますからともかくとして、一般参賀や天皇巡行パレードでの旗振り役とは全く無縁のところで、突き止めるところ、彼らとは別べつに生活し行動したいと思うのは当然の事であろう。だから、いみじくも秋篠宮が「大嘗祭は皇室の私的行事」と語ったように、将来的には、皇室は一民間宗教法人とその祭主として独立して生き延びて行ってくれた方が全てに現実的であり、天皇制という身分制に何の矛盾も抵抗も感じず、むしろそれを喜んで支持する人たちが信者になって年会費を納めながら、天皇教に移行して皇室を未来永劫支えていってくれた方が、彼ら皇室も気兼ねなく、そして国民にも非常に分かりやすく合理的で、しかもすべてが丸く収まる方途であろう。その方が万世一系の天皇制にとっても、より永らえるためには一番賢明で合理的な策であることに間違いない。

ところでそのことは別としても、最初の元号問題に戻って考えてみれば、仮に将来、天皇の代替わりが数年単位で頻々になさざれるを得なくなった場合、つまり、かつて現人神などと奉られた時代があったとしても人間宣言をした以上、人間の寿命や健康問題などというものは誰にも予測出来ない緊急事態な訳だから、もしそれが現実的に起こった時、元号の変更行事を金と手間ひまをかけて、その都度今迄の様に仰々しく取り行うことが出来るのかという当たり前の疑念が生じる。そのような緊急事態が頻々に続いたら、日本人は一体どのように対応するのであろうか。いや実際、過去の歴史において、数年で代替わりした事例は枚挙にいとまがないのだから。実は意外とそのような単純な疑念から、天皇制の抱える矛盾が国民の間に分かりやすく露呈してくる可能性もある。それにしても条理に反することは、それが早いか遅いかの問題であって、つまるところ、いつか必ず終わりが来るものなのである。

最初に、はっきりと共有させなければならない事柄がある。つまり、二千年の歴史の天皇制というけれど、厳密に正しく言えば、以下に述べて行くように歴史事実と歴史認識からこれは明らかな誤謬である。つまり政治制度としての天皇制は、12世紀中頃の平氏の政治的擡頭とそれに続く源氏による鎌倉幕府の成立、そして後白河法王の院政政治の終焉をもって完全に崩壊しているのだ。その後思い出したように後鳥羽や後醍醐による妄動はあったけれど、結局、影も形も跡かたなく消えて無くなってしまっている。つまり明治に至る数百年の間、分かりやすく言えば、横綱免許の吉田司家と大相撲協会との関係の様に、武家による実質権力によって政治的象徴的に利用されたことはあっても、政治制度としての天皇制度など全く存在しておらず、存在していたのは様々な系統を組み合わせて辛くも維持されて来た、公家を中心にした私的な天皇家に過ぎなかったのだ。ましてや歴史の自然な流れに逆行する様な、不自然この上ない王政復古など破綻することは必然であった。

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