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2016年1月

芥川賞に思う  作家の実相と作品

今、貸出しの延長を繰り返しながらも、近所の図書館から小林秀雄全集を借り出してきて、久しぶりに彼の評論作品に時間の許す限り目を通している。学生時代、生き方や思想は別にしても自分もそのように書けたならばと、加藤周一の評論作品と共に彼の怜悧な表現と芸術の様な文体には随分と憧れたものであった。あらためて、今も色褪せぬ日本の近代理知性を代表するかのような小林の教養、特にランボーを初めとする専門のフランス文学に対する造詣の深さ、そしてその研ぎ澄まされ透徹した文章表現に頗る感心している次第などと言ったら、それは当然のことだけれど、中也との女性問題も含めて立場的に彼を毛嫌いし、いや思想的に聊かでも彼に否定的な感情を抱いている連中からは、いくら何でもそれは褒め過ぎであろうと反発を受けるかもしれない。確かに若き頃、彼の作品に対する思い込みは我ながら相当強かったのかもしれない。しかしこの数十年、進歩保守を問わず、彼に匹敵する、或いは少しは感心するほどの客観的知性にはあまり出会っていない。まさに、日本の保守派を代表する良質な知識人であったことには間違いはあるまい。彼に対してどこかあらさがしをしようとしても、それは自分には追いつけない彼の才能に対するコンプレックスの裏返しか、せいぜいがプロレタリアート的ではないと言う、プロレタリア文芸全盛時の社会主義的価値観に基ずく単純な理由と、そこから派生した戦争責任論だけであり、さらには傍観者的で無責任に過ぎるという、いつの時代のどの評論家にも浴びせられるありきたりの批判だけであって、その時々における年齢的未熟さから来る、少々背伸びをしているのではと感じさせる若年期の大人びてませた表現も、若くして才能を発揮した人間であれば、誰もが背負う宿命的なものであってどうにも致し方ないことであろう。それよりも、逆にあらためて、この年になっても到底追いつけない、自分の教養と知識不足、そして何よりも文章表現の拙劣さを痛感している。

そんな中、文豪トルストイの恐妻からの逃避行の挙句、みすぼらしく客死したエピソードに取材した評論、特に正宗白鳥とのちょっとした論争を巻き起こした、「作家の顔」と「思想と実生活」は、ひょっとしたらランボーに通じるのかもしれない、如何にも彼のどこか冷めた評論スタイルを代表しているかのようで興味深く面白い。人類解放の、そして博愛の権化であるかのように世間で思われていたこの大作家の、たかが女房のヒステリーに日夜悩まされ続けた挙句、家出して野垂れ死にした現実と、その立派すぎる思想のあまりの乖離ぶりに対して、いつの時代にも変わらず存在する、底意地の悪さとやたら皮肉に満ちた俗っぽさで、いや到底敵いっこのない文豪トルストイの才能に対する僻みと妬みも含めて、いわゆる傍観者の利己主義も含めて、能天気に批判気に面白がって騒いでいる世間の無責任なムードに、小林なりの視点とレトリックで反論し、逆に冷静に冷や水を浴びせかけている。たぶん恐妻家であったであろうトルストイと違って、それどころか、それをさんざん揶揄した正宗に対する「正宗氏なら山の神の横っ面を張り倒すぐらいのことはするのであろうが」という部分のコメントは、彼のあの文豪への理解と同時に、世間に対する彼一流の嫌みのない皮肉が利いていておもしろい。

それに関連して思い出すのは、若き頃、当時の奔放な若者たちの姿を描いて芥川賞を受賞したのはいいけれど、作品が大して続かず、いやその受賞作自体ただ奇を衒っただけで普遍性に欠けて、その後は作家としては泣かず飛ばずで、要領良くと言うか上手く作家には見切りをつけて転身し、今では俗そのものとしか言いようのない薄汚い政治屋的イメージしか思い浮かばせぬ元タレント作家、いや保守政治家がかつて政治家になりかけの頃、彼の日頃の言動からすれば、彼の文豪とは全く正反対に女房の横っ面を張り倒すぐらいの亭主関白ぶりと、想いとは別に結果的には溺愛が過ぎて、我が子は軟弱そのものに育ち上がってしまったけれど、それでも息子たちに対する嘘か真かは分からぬメディアを利用したスパルタ式教育本の強烈なイメージが、当時の世間を相当賑わしたものである。そういう意味では、作家の日頃の言動と振舞い、そしてその生活態度には、逆の意味で懐疑的で人一倍敏感な方かもしれない。その作品を鑑賞する以前に、彼らの実生活を具に眺めていて、直感的に偽善性と胡散臭さが感じられ、少しでも自分の素直で意に沿わぬ納得のいかぬ発言や行動や嘘があったりすると、いやその忌々しげな表情を見ただけで、彼らの作品に対する世間やメディアの作った表向きの評判がいかように好意的であったとしても、いや世間の評判が頗る良ければ良いほど、天の邪鬼ではないけれど、反対に世間のムードに嫌悪を覚え敬遠する質なのである。だから僕も恐妻家の同病者として、逆にトルストイに対しては、同情とは別にかてて加えて、文豪らしからぬ人間臭さに大いに益々共感を覚える次第である。女房の浮気に対して何も言えずにいる、「戦争と平和」の気弱な主人公ピーエールはおそらく彼自身の投影なのであろう。

ところで、昨今の何かと話題の芸人作家の、一見風刺の全く利かぬお笑い芸と語り口、そしてお茶らけたイメージしか浮かんでこない実生活と実相から発される思想・表現、即ち小説作品とは、一体どのような代物であるのだろうか。元より、いまだ読んでもいない作品に対してケチをつけるつもりなど毛頭ないし、ましてやろくな文章も書けぬ人間の言えた義理でもない。そんなことをしたら当然、僻み妬みから出た単なるケチつけに過ぎないと世間に思われるのがおちである。それにゴーストだの編集者が相当手を加えている筈だなどと、そんな下種な勘ぐりを入れたがる輩は、大体へその曲がっただけのさもしい奴と相場が決まっている。しかしながらそうは言っても、やはりもろ手を挙げての世間の歓迎ムードがどうも腑に落ちないのである。しかも選考前からの、彼の受賞を期待させるように煽りたて、既に彼の受賞は決まったかのようにハシャギまくるメディアの報道ぶりを眺めていると、それが好意的なものであれ否定的なものであれ、毎年ノーベル文学賞の発表間近になると村上春樹を持ち出しては異常に大騒ぎする日本のマスコミメディアの姿に二重写しになって、それに触発された世間の評判と言うやつが、本当は事実から目をそらされた、まさに真実を見そこなかったかのような間抜けな姿に思えてきて益々耐えられなくなるのである。その上、真理の追究だの思想・信条・報道・表現の自由だのと、出版メディアが普段いくら綺麗ごとを並べ立ていても、自分の事となるとそれと全く正反対の事をやることが結構多い。そうした彼らの大騒ぎぶりを眺めていると、小説文学など言っても所詮ミスコンと同じ主観の世界、主催者が何とでも理屈を付けて辻褄は合わせられると、そんな詰らぬ勘ぐりをさえ入れたくなる世間のムードなのである。今度の件、今流行りのテレビ番組、芸能人一流格付け番組なるものと同じ要領で、つまり目隠しテストで経歴を一切隠して発表された彼の同一作品が、躊躇なく選ばれるのなら文句のつけようもないことなのだが、とにかくそんな検証など出来っこない。どこかの企業が主催するミスコンの選考が、既に大手プロダクションの唾のついた売り出し予定のタレントに事前に決まっているように、それが芸能プロダクションと出版社との提携による、商業主義に根ざした何でも有りの売らんがための本当に巧妙な販売戦略だったとしたならば、いくら出版界の生き延びていく上での方便であったとしても、それはもう彼らの自殺行為となる。

とは言え、実際は我々の様な何に対しても一旦は構える様なポーズを取るへそ曲がりには、件の芸人作家自身は表向きそう見せかけておいて、その内実と実相は言葉に言い表わせぬ世間の不合理と不条理に日夜悩み抜いていて、逆に作品内容はそれへの巧妙な投影なのかもしれないのだから、軽々に先入観とうわべのイメージだけで判断するのは如何なものかと大いに反論されるかもしれない。いや、日頃のイメージとは別に、実際の人間性との格差、つまり逆の意味での落差と意外性とで感動を覚えさせることもあるだろう。実際、そういう事もあるかもしれないが、しかし何しろこの二三十年、如何にも世間の関心を引こうとする、魂胆見え見えの奇を衒うだけの小説作品には、全くの食わず嫌いかどうかは分からぬが、嘘っぽくて読書欲が全く湧かず、タレント本は当然、どういう訳かその手の小説なるものに全く目を通していない。この年になると、もう残された時間も少ないせいか、時間が惜しく、どうしても未だ読んでいない過去の名作や古典にばかり目が向かってしまうのである。しかし、それでも恐らく彼の場合、小説家としての創造力と文章力は当然あるのであろう。だから論評する以上は、いくらなんでも必ず一度は目を通しておかねばなるまいと思っている。もし思いこみとは逆に感動を覚えさせられるような作品であったならば、その時は当然、潔く自らの不明を恥じねばなるまい。

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