« 戦後レジームからの脱却 | トップページ | 芥川賞に思う  作家の実相と作品 »

あまりに過大評価された日本人 吉田松陰

 

                             行燈省益

あまりに純粋培養された故の潔癖さなのか、はたまた猛なのか狂なのか、彼の本当の実力と人間性はよく分からない。でも内実はともかく、例えば「講孟余話」などの著述から何となく察せられる、おそらく頭脳がまっさらであったろう幼少期から、父親や伯父に無批判かつ必要以上に植え付けられた、それは平気で異教徒を惨殺できるテロリストが、イスラム神学校で幼少期から無批判に教わって丸暗記したコーランの教えと同じ様に、はるか昔の春秋戦国期以来権力体制がいかように変わろうとも、権力者にとってだけは常に都合がいいように守らてきた古代中国人の価値観、まさに日本の尊王主義にもつながる、四書五経に描かれた鼻につくほどの至誠ぶりと忠孝イズムに影響され過ぎたせいなのかは知らないが、いや、それとも漢文を読み下す際の「音読み訓読み」入り混じった日本語独特の、いかにもうす気取った言葉の雰囲気や語感に酔いしれたせいなのかは知らぬが、後年、三島由紀夫の「豊穣の海」に出てくる、あまりにこまっちゃくれたパラノイア少年飯沼勲にも通じる、その馬鹿馬鹿しいまでの現実から乖離した、そして年齢以上にあまりに背伸びして大人ぶった情緒的な思考表現は、密航に失敗し、さらに死に際して残された短歌、つまり「かくすればかくなるものと知りながら・・・」とか「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし・・・」などと同様、相も変わらず感傷的で大和魂に何となく魅了されてしまった一部の日本人には、堪らないほどの高揚感にも襲われて大いに受けるのであろう。「喉元過ぎれば熱さ忘る」とはよく言ったもので、惨めな敗戦に懲りもせず、一度は否定されたはずの吉田松陰の過激な尊王思想や行動も、天皇や政治指導者たちの敗戦責任(断じて戦争責任ではない)を実に巧妙に曖昧にしてしまった戦後の雰囲気の中で、それに利用されるかのように、これまた実に見事な復活を遂げてきた。なお且つ、最近の教育勅語に対する「教育勅語にもいいところはあった」などと言う、いかにも薄っぺらで稚拙な思い入れ発言や自主憲法制定の動きなど、時代の右傾化を反映する単純偏狭な民族意識や国家意識の高まりの中で、彼はいま再び、ことさら過大に評価されようとしている。

 

まあ、冷静に考えてみれば、とりわけ必要以上に影響を受けた孟子と同様、現実を無視して言いたい放題の事が言える学者っぽい無責任な立場からの、皇室崇拝にかぶれたその極端な尊王攘夷思想は、明治以来の敗戦に至るまでの、その後の日本のあまりに惨めな行き付き先を考えると、その影響力を考えて、慶喜可愛さの親馬鹿ぶりから、同じようにニセ勅許(戊午の密勅)と攘夷でさんざん煽りまくって桜田門外の変と天狗党の乱という幕末の二大愚挙を引き起こし、その後の水戸藩を回復不能なまでにずたずたにした挙句、幕府崩壊の端緒を開いた第一の功労者、御存じ「天下の副将軍」徳川斉昭と並んで罪作りで馬鹿げていたという点では双甓である。そう思うと、今でも彼を必要以上に美しく描く相変わらずの物語は、彼をどこか過大評価する、つまりどんなテロリストであっても尊王論者でありさえすれば、例えば土佐勤皇党の武市半平太らに代表される単純で狂信的な攘夷主義者であっても、さらには現実を無視した短絡的で偏狭な尊王攘夷主義者の代表格であった久坂玄瑞らを、すぐに偉人や善人にしてしまう、現代まで連綿と続く幕末から明治期に発生した安易なポピュリズム的英雄譚のさきがけであったろうか。しかし断わっておくが、吉田自身は紛れも無く無条件に実直で誠実な人物であった。幼児期に洗脳されて植えつけられたのであろう、その強烈な天皇崇拝ぶりも、彼自身の心の中では自らの良心に何ら恥じるものでも無く、彼が唱えるその人民至上主義とも全く矛盾しないものであった。どう思われ解釈されようと、彼なりに衷心からの気持ちであったのは確かなのであろう。しかしそうは言っても、例えば大獄における刑死の直接原因となった過激で突発的な「間部老中要撃策」などは、やはり冷静で客観的視点で捉えるならば、それは朝鮮併合に比較的慎重であった伊藤博文を暗殺して、結果的に朝鮮併合を早めてしまった安重根が、その軽挙ぶりにも拘わらず、その意気やよしという程度での独立運動の英雄として、韓国で今でもことさら情緒的に称えられているのと同様、本当は同じようなレベルでの話ではなかったのだろうか。その青臭さは、後年ことさら大仰に「維新の父」などと呼べる代物でもなかったのだ。ちなみに看守や獄史に同情される点も含めて、あまりに二人の人物像と環境は似かよっている。

 

ところで文芸や芸術などの美的領域ならいざ知らず、つまり年齢に関係なく才能次第で、どんな若者でも早熟の天才という言葉で簡単にかたずけられることは可能だけれど、しかし長い人生に裏打ちされて初めて語れる、社会論と政治論を含めた人生哲学などになるとそうはいかない。しかし三十歳にも満たない青二才と言っても言い様な、文字通り世間知らずの、このやたらこまちゃっくれて世間を知ったような若造の大仰な物の言いようにも拘わらず、その最後が日本人好みの悲劇性を帯びていたせいもあって、いや帯びていたかのように戦後もずっと変わらずに、映画や書物やNHKの大河ドラマなどが、彼の実像を何となくぼかして必要以上に悲愴に描くせいか、さらには未だ日本人自体が戦前の王政復古の薩長史観に引きずられてその呪縛から逃れられないでいる影響もあって、あのイスラム原理主義者顔負けの、あまりに排他的で自己中心的な思考であるにもかかわらず、すなわち本居宣長や佐藤信淵らの偏りきった国学者の影響をまともに受けて著した「幽囚録」などに見られる、周辺アジアを小馬鹿にしたとしか思えぬ、その後の大東亜共栄圏をさえ予見させるような身勝手で自国中心主義に過ぎないだけの偏狭な尊王攘夷であったとしても(勿論その様なことはわが国だけの問題ではないけれど〉、それでも、いまだ独りよがりの民族主義の呪縛から逃れられないでいる、現代の少なからぬ日本人にヒーローとして大いに持て囃され美化されがちである。

いや、それでも歴史にもしもが有ったならばと、想像力だけは結構かきたてられる人物ではある。幼少時代の、まるでいっときの戸塚ヨットスクールの指導を彷彿とさせるような暴力的環境の中で、理由無くどんなに殴られ蹴られようともじっと耐えていた精神性、そして父母に対する舜に勝るとも劣らぬ孝行振りにはほとほと感心もする。幼くして主君の前で山鹿流軍学を講じたのだから、知的能力も相当であったに違いない。そして教育者としての適性も人望ももちろん十分あったのであろう、それだけは認めねばなるまい。だからこそ、あの時二十歳すぎの多感な吉田大次郎(寅次郎)青年が密航に成功していたならば、つまり下田に停泊していたペリー艦隊が、条約違反の批判を恐れず、結ばれたばかりの和親条約の細かい条文を一切無視して、彼をアメリカに連れ帰っていてくれたならばと心から思わざるを得ないのである。もしも、そのようにして海外の進んだ文明に触れた途端、人生観を180度変えた、それまでとその後の偏狭で無知な多くの若者同様に、彼も尊王主義に基ずいた頑迷な攘夷思想をかなぐり捨て、さらに、おそらく黒人解放を目指して大統領予備選を戦っていたであろう、その頃のリンカーンにでも万が一遭遇して大きく影響を受けていれば、風が吹けば桶屋が儲かるの伝ではないが、その後の日本の歴史は大きく変えられていたに違いない。その様にして、日頃の天皇崇拝ぶりから解放されて、たとえそれが天皇であれ誰であれ、人の上に人を作ることの愚かさに気付いて大きく目を見開かされ、社会主義者とは言わぬまでも、せめていっぱしの民主主義者にでもなっていたならば、そしてその後何年もの異国体験を経たのち帰国し、同じように松下村塾で、若者たちにそのアメリカ仕込みの民主主義を教えることが出来ていたならばと、あらためて思わざるを得ないのだ。そして、仮にもし本当にそんな風になっていたとしたら、実際はそうではなかった自分のとった現実の行動をあの世から俯瞰して、彼はその軽はずみの行動を心から恥じている筈なのである。

実際、賎民などの被差別者に対する彼の同情と理解、さらに加えて、聾唖者であった実弟敏三郎へのやさしさと思いやりを考えたならば、太平洋戦争後の多くの軍国少年たちが、敗戦をきっかけにしてジャズやハリウッド映画などのアメリカ文化に触れるや、植え付けられた軍国主義をかなぐり捨てて突然の様に民主主義者に変身していった如く、それは大いにあり得た話なのである。そして彼に影響を受け開明的になった多くの松下村塾の若者たちも、同じようにその後の偏狭で極端な尊王攘夷主義から解放されて、あの明治から昭和20年8月15日に至るまでの極端な天皇制絶対主義に主導された、戦前日本の歴史は大きく変えられていた可能性もあった訳である。つまりアメリカに二度までも原子爆弾を投下され、ソ連には北方領土まで奪われて、最後には連合国の言うがままにポツダム宣言を受け入れて無条件降伏すると言う体たらくを演じた、あの1945年8月の無残な結末は無かったのかもしれないと。それは間違いなく日本の二千年間の歴史を通じて最悪の情況であり、それは又、間違いなく天皇制という時代錯誤がもたらした最大の悲劇惨劇でもあったのだ。実際、幕末開国すれば、諸外国に日本は蹂躙されるなどと大騒ぎをして天皇を祀りあげて幕府を倒しておきながら、それから80年足らずのあとに、神国は蹂躙され穢されるどころか、四百万人近くもの人民が殺されたあげく国土は焼けつくされ、異国に国家を占領されると言う屈辱的体験を喫し、逆に東日本大震災の何百倍にも匹敵する大惨状を日本中にもたらしたのであった。しかも皮肉なことに、幕末尊攘志士たちが主張した通りに、大和魂に浮かされて強気の道を歩んだ結果、逆に彼らが心配した通りに、神国は穢されるどころか、無礼にもミカドまでが進駐軍司令官の前に引きずり出され、文字通り彼にホゾの如く振舞われ、朕の上から為す術も無く臣下としての礼を強要され、異国に日本を壟断させる状況を導いたのである。さらに情けないことには、戦前戦中あれだけ鬼畜米英などと大言壮語して国民を煽っておきながら、そうした朕までもが虚仮にされるという忌まわしい状況に直面しても、悲憤慷慨して腹を切った軍人右翼など全くいない有様であった。それを思うと、今も全てが英雄主義的に描かれるあの幕末の尊王倒幕運動とは一体何であったのであろうか。

長州藩の儒学者、山縣太華との論争においても、最初は「万民の為の天下」を声高に叫んで、恰も憂国の至情から人民至上主義を貫いているかのように幕府批判をしていたくせに、天子と人民の軽重を問われるようになると論理的に詰まって、最後は開き直るように「僕は人民よりもあえて天子を取りたい」などと、学者としての冷静で学究的考察の全く欠如した、さらに言えば、彼よりも100年以上も早く、既に18世紀半ばに徹底した万民平等思想を唱えて、心底から人民の安寧だけを考えていた安藤昌益などとは全く異質で、知識人としての良心もかなぐり捨てた自分の単なる思想的嗜好を述べるに過ぎなくなっている。すなわち、歴史の逆行以外の何ものでもない「王政復古」などを持ち出して、その上、その後、戦前教育勅語にも繋がった様な「一君万民」などと、「天子の為なら人民の多少の犠牲は全く厭わない、四百万人程度の犠牲なら全く問題ない」と言う意味にも取られかねない、たとえそれが倒幕の為の方便であったとしても決して許されるものでない、理屈の分かる人間であったならば到底あり得ない情緒的で最低なレベルの主張に陥っている。それは既述した如く、人民至上主義を一方で唱えながら、片方で天皇礼賛に走る論理的説明のつかない彼の大きな矛盾であった。さらに分かりやすく言うならば「裸の王様」の中の愚かで欺瞞的な大人たちではないけれど、おかしいとは思いつつ何の疑念も抱いていないふりをして見せる、現代の進歩的と言われる連中も含めた、その後の多くの日本人が心の中で共通して併せ持つ、例えば皇室制度容認と人間平等の為の部落差別撤廃運動の推進と言った類の、併存不能で不可解極まりない実に巧妙な矛盾を単に先取りしていたに過ぎない。あえて彼を好意的に評価するならば、高潔な人格に加え、「東北行」や「下田踏海」に見られるように、思想家と言うよりも並はずれて優れた実践者であったと言うべきであろうか。

彼の属した長州藩においても、まだ当たり前の理屈が判る山縣太華や「航海遠略策」を建白した長井雅楽らの方がはるかにバランス感覚が有って大人の考え方なのであったが、巻き起こる尊王攘夷の熱狂の渦の中でそのような常識論は逆に全て否定されていき、代わりに吉田の様な、未熟な若者達を煽るだけ煽って刑死していった現代のイスラム至上主義にも通じる過激な人間が英雄視されていくのである。あの私塾に集まってくる若者をも、相変わらず、例外なく皆好意的に描くドラマや映画の松陰物の演出手法も痛く鼻につくけれど、志半ばに倒れた者は別としても、いや村塾出身者も含めた藩閥政府高官の腐敗堕落にまでたどり着けなかった志士達は、逆にある意味幸運であったかもしれぬが、功なり名を遂げて侯爵伯爵男爵様にまでなられた幕末の英雄達のそのなれの果てを精緻に観るにつけ鼻が白ける場合が多いのである。義卿が仮にその後も生きながらえていたとしたら、果たしてそれをどう見たのか実に興味深い。

 

つまるところ、幼少期以来刑死するまで頭の中に散々叩きこまれ出来あがった、卑屈なまでの天皇崇拝に基ずく彼の一連の発言と行動は、倒幕からポツダム宣言受諾に至る戦前の天皇制軍国主義国家日本にとってだけは非常に都合のよいものであった。さらに冷静に見れば、それは世界が閉ざされた独りよがりのものであり、他の多くの偏狭な民族主義者の主張と全く同じであって、ただその際立った至誠ぶりと孝行ぶりが故に、その様な人物は須らく尊王の志が篤く、その主張も正しく立派であると、後年、村塾関係の多くの政府高官の影響力もあってか、短絡的に政治利用されたに過ぎなかった。その様に評価され利用された事は、彼にとっては不本意なことであったかもしれない。しかし天下の変節漢、徳富蘇峰を始めとする超国家主義者らによって祭り上げられ、さらにその尊王ぶりを微妙に歪曲され利用され続けた部分があったとは言っても、その本当の悲劇性から考えれば、西郷大久保らに主導された、薩摩の因循姑息な幕末の変節ぶりに悲憤慷慨し、討薩檄などで徹底糾弾して斬首され、挙句、その死体を見せしめの様に解剖にまで付された米沢藩士雲井竜雄の方が遥かに同情に値するものであった。さらに言えば、吉田よりも若く、彼と同じ様に大獄に刑死した橋本佐内や、目的の為なら手段を選ばぬ冷徹な陰謀家そのものであった西郷が、無慈悲に放ったテロリストの凶刃に倒れた赤松小三郎らの様に、世界の情勢に明るく、現実的かつ合理的でもっと評価されてしかるべき日本人は、つまり本当に惜しむべき人材は吉田以外にいくらでもいたのである。倒幕は歴史の流れから言えば必然の事であったけれど、吉田らが主張した様な、過去の歴史を無条件に美化して逆行させた王政復古など一番やってはいけないことであったのだ。

 

 

|

« 戦後レジームからの脱却 | トップページ | 芥川賞に思う  作家の実相と作品 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 戦後レジームからの脱却 | トップページ | 芥川賞に思う  作家の実相と作品 »