ずいぶんと神格化された日本人 西郷どん

                            

                            行燈省益

心酔しきっていた斉彬はともかく、それが全く反りの合わなかった国父様であったとしても、当初彼の決断と行動の前に常に有ったのは、忠義に絡め捕られた自らの藩と主家筋のご意向、つまり薩摩と言うちっぽけなクニの都合だけで、ことさら日本国をどうこうしようという大それた考えが、その頃の西郷の頭にあった訳でない。若き頃彼を突き動かしていた大きな要因は、藩に対する単純な忠誠心と情(じょう)だけであり、そこには島津家を超えて、普遍的な天下国家にまで辿り着く崇高な理念や理想など存在する由もなかった。もちろん、自らの藩の「領民」と言う程度の最低限の問題意識は彼にもあったにせよ、そこにペリー来航以来、日本中に雨後のタケノコの様に現出した短絡的で狂信的な天皇主義者達でさえもが、「尊王」とか「攘夷」と言ったお決まりのスローガン以外にもとりあえずは口にしていた、「人民」などと言う気の利いた問題意識や概念など有り様の筈がなかった。

 

そんな訳だから当然、その後の人生も含めて、彼が思想めいたものを現実的に開陳していたとすれば、それはせいぜいが、清の康熙帝が好んで扁額に掲げていた「敬天愛人」などと言う、中国の皇帝自らがどこか適当な漢籍物から端折っただけの、それも如何にも日本人受けのするうす気取った言葉の響きと、尤もらしい雰囲気の漂った人生標語を交えた書や賛があっただけで、まともな政治理念や国家観の窺える著作らしきものは、彼の肖像写真と同様何ひとつ存在していない。浅学寡聞の身なれば誤りがあったらご容赦願いたいが、只はっきり言えることは、斉彬からの多少の影響はあったにせよ、そして敢えて付け加えれば陽明学をかじっただけで、もともと彼には世界を見据えた明確で卓越した国家論も政治論も無く、要するに後年ずいぶんと神格化された割には、右にも左にも関係なく、ただ情と人間関係で動いていただけの思想には全く無縁の徒であったという単純な事実だけである。つまり、西南戦争後しばらくして何となく神格化されてしまった彼を、敬天愛人などと上っ面のイメージだけで、具体的根拠も無くただ何となく尊敬してしまっている多くの日本人には大変申し訳ない事だけれど、そこにはずいぶんと期待外れで冷酷な歴史事実があったに過ぎない。

 

僧月照との入水事件や、二度にわたる遠島処分といった彼の一連の行動や過酷な体験が、後年結果的に予期せぬ討幕につながったとは言え、禁門の変での振舞いや長州征伐への深い関わり合いを含めて、それまでの一連の擁幕行為が彼自身の理念と思想というより、これ全て幕府や藩上層や他藩の思惑の結果であり、同様に後の討幕行為自体も当然彼が最初から目指していたものでなく、様々な人間のそれまでの思惑と企み、それに彼を取り巻く状況変化や薩摩藩の都合が複雑に絡みあった結果、実行当事者として白羽の矢が藩の実力者に成り上がっていた西郷に当たっただけと言う単純なものであって、彼自身が自らの思想イデオロギーの帰結として、最初からその後の遠大な日本の進むべき具体的姿を思い浮かべての決断ではなかったのだ。そして突然の慶喜の大政奉還と言う奇策に対処するため、一度決めた以上は何としてでも武力討幕を目指そうとする意固地な彼が、幕府を挑発する為だけに大久保と一緒になって仕出かしたことは、江戸市中での浪人ゴロツキどもを使っての押し込み強盗や辻斬り人殺しなど悪辣この上ない犯罪行為と、後述する京都での種々の陰湿な暗殺指令だけで、目的の為には一切手段を選ばぬ彼が、元々から情とともに併せ持っていたのであろう、一度決めたら冷酷に徹することの出来る非情さは別にしても、そこに至るまでの、つまり幕軍の軍司令官から討幕の総司令官への大転換と言う経緯には、計算され尽くされた彼自身の深い思想的洞察や悩み抜いた葛藤があったとは到底思えない。自藩に対してだけは別として、幕府や他藩の関係者に対しては、武力討幕と決断したならばそれまでの情誼など一切考慮せず、邪魔と思えば、これっぽっちのためらいもなくあっさりと暗殺や人殺しさえやってのけていたのだ。平時での決断の速さは、あらゆる意味で肯定的に捉えられることは可能だけれど、後の西南戦争もふくめて、非常時には逆にその決断力と潔さには怖さも伴うものなのだ。(押しこみや人殺しなど知らぬ事と手紙には書いているけれど、扇動した黒幕が私がやりましたなどと言わぬだろうし、逆に薩摩の実質的権力者が何も知らなかったでは済まされまい。では一体、誰が指図したというのだ!後年、薩摩藩関係者は不自然なほど、西郷のイメージダウンを恐れて彼とダーティーな部分との関連を隠そうとしている)

 

それは兎も角、未来を見据えたいっぱしの政治家であり思想家であったならば、討幕に散々尽力して、後年せっかく新国家を背負って政治権力の檜舞台に登場しながら、船頭多くして船進まずを絵に描いたような新政権だったとは言え、征韓論などという実につまらぬ問題で、持ち味売り物の至誠熱情が通じぬとみるや、すぐさま投げやりで中途半端な下野の仕方などしていなかったであろう。そう考えれば、私腹肥やしに専念して腐敗を極めた山縣有朋や井上馨らの胡散臭い尊攘派の志士あがりとは正反対の、私利私欲の少ない人間とも言えなくはないが、その潔さが一方で単純で無責任ととられてもおかしくはない結果を残したのだ。それに常に表舞台で活躍し続けた彼ほどの人物になれば、尤もらしいそれなりの著述や記録も自ら当然残していたであろうに、基本的には他人からの働きかけと情だけで動き、最初から政治的指導者としての自らの明確な理念の欠如していた彼にとって、戦前の道徳授業にピッタリな孝行とか忠義とか、はたまた人間は如何にして生きるべきかと言った、まるでリーダーズダイジェストにでもぴったりなそれらしい人生訓や人生標語が有るだけで、自分自身の思想を具体的に表現したものは既述したように無いに等しい。もともと有ったリーダーシップ、それに晩年にかけて益々強くなったカリスマ性と、未成熟で世間知らずなだけの若者達、とりわけ男色めいた性癖の若者を惹きつける独特の男っぽさと人間的情味はある程度認めるにしても、そして、そういう無知で向こう見ずな若者たちの存在が彼の神格化に少なからず貢献したと言えなくもないが、それも含めて西郷評価のすべては他人が語る彼の行動と人物像だけであって、戊辰戦争後の彼の温情に感謝した、素朴で実直な元庄内藩士らによる「南洲翁遺訓」などの様に、好き嫌いなからだけの世間が勝手に描く人物像と、忖度なだけの評価が横行横溢していたに過ぎない。そこには、上野のお山の犬を引き連れた彼とおぼしき銅像の様に、世間のこうあって欲しかった、ああいう風にあって欲しかったと思う勝手で情緒的な期待と、薄っぺらな神格化が付け入る余地が残されていただけなのだ。

 

幕末期の混乱、そして討幕から西南戦争に至るまでの混迷の時期、彼には人民と言う意識はもちろん、自ら発する気の利いた明確な政治理念など殆ど無く、いつも周りから推される様に、いや祭り上げられる様にただ情だけで動いていたに過ぎない。そのうえ、見せしめのため新政権によって処刑され人体解剖にまで付された、悲運の漢詩人、米沢藩士雲井龍雄が悲憤慷慨して非難したように、特に幕末、目前の状況変化に薩摩藩つまり自らの立場をも、理念も無く容易にそして巧妙に変節させていっただけなのだ。それでも、一連の詳しい歴史経緯を知らぬ多くの情緒的日本人には、その後洗脳された王政復古と薩長史観にも惑わされて、西郷の併せ持っていた非情さは都合よく捨象され覆い隠されて、ことさら情に溢れた様にだけ描かれた彼の表層的な人物像が大いに受けるのだ。特に今以上に民度の低かった当時の日本人の、ましてや瓦版的新聞や錦絵情報からしか判断出来なかった社会状況もあって、情緒的気質と浪花節的人物嗜好にぴったり合った好個の人物であったことは間違いない。戦前、彼に当たり前の理由からであっても僅かでも批判を加えようものなら、即座に村八分、非国民の烙印を押されたことほぼ請け合いの人物であった。天皇制軍国主義とも合わさって、明治の賊軍と言えども、まさに侵犯せざるべき領域にまで達していたのではないかと思わせるほどの評価ぶりであった。だから逆に、彼に非情な胡散臭さを感じる側からすれば、敬天愛人だの南洲だなどと、何だかんだ勿体ぶったフレーズや名前が先ず鼻につくけれど、そもそも隆永という慣れ親しんだ筈の本来の自身の名がありながら、隆盛なる父親の名が、なぜか政府への申請書類に間違って記入されたという単純な経緯であったにもかかわらず(巷間そう言われているけれど)、どさくさに紛れての親思いぶりをひけらかす為なのかどうか分らぬが、すぐに訂正すれば簡単に済むものを、その後の歴史教科書には舜の孝行話にもなぞらえるかの如くわざとらしく勿体ぶって当たり前の様に放置記載され、今に至るも世間に流布され続けるという、そんな不自然さといい加減さもどこか腑に落ちない。余程の事情がない限り、本来の自分の名前にはもっと執着すべきであり、親孝行や恬淡さをひけらかす為の単なる思惑や方便から、自分の名前が物同様にぞんざいに扱われるべきでもないだろう。(彼に限らず、昔の人は慣れ親しんだ自分の名前に大事にしているようで妙に頓着しない)

 

ところで情けに厚いという世間の薄っぺらなだけの評判に反して、前に述べた様に彼には目的の為なら手段を選ばぬという裏の怖さがあって、例の大政奉還の頃の、実はこれが一番肝心なのだが、一度大義正義と思い込んだらその目的の為には我が子も平気で殺しかねない、かなりな非情で歪んだ一面を併せ持っていたのだ。幕末の開明的な思想家であり兵法家でもあった信州上田藩士の赤松小三郎という人物を、当初その学識を大いに評価して、いやそれどころか客観的に見てもその後の日本にとって実に惜しむべき好人材であったのだが、京の彼の私塾に多くの薩摩藩士を入塾させ、更には薩摩本国にまで招聘しようとするほどの惚れ込み様入れ込み様の評価ぶりであったのに、武力討幕の事実を知られたと見るやその口封じのため、それまでの交流情誼は一切無視して、中村半次郎(桐野利秋)らの様なヤクザ親分の為なら言われずともその意を体して何でもやるチンピラざむらい輩をそそのかし、無慈悲にもあっさりと斬り殺しているのだ。中村は自身が、そこの塾生弟子であったにも拘わらずである。そこには師弟関係よりも絆の深く固い、そしておぞましいとしか言いようのない西郷と中村のただならぬ異様な男関係が感じられるのだ。しかも彼らは単なる殺人者であったにも関わらず、人殺しの罪は問われぬまま、その後政府高官にまで上り詰め、挙句日本の偉人扱いされるまでになったのだ。その経緯は非常に重要で暗示的であり、その後同じ様に暗殺された坂本竜馬にも繋がる重大事件だったのだ。徳川幕府に内包する身分制を否定しようとする討幕の契機があったにしても、人民と言う概念も薄く、その内実はより身分制的で復古的な天皇制を目指した西郷らにとって、おそらく竜馬らが目指した、薩長政権よりはいささかでもましで民主的な雄藩連合による共和制国家のトップの座に、将軍の地位から降りたばかりの徳川慶喜(もしくは春嶽あたり)を推挙しようとした彼が許せず、邪魔になったであろうことは容易に推察される。

 

さすがにこの時点では、西郷も大久保も将来の国民的竜馬人気を見越してはいなかったのだろうが、明治になって、今さら私たちがやりましたとは言えぬ雰囲気になっていたのだ。かつて竜馬に、配下の捕り方を寺田屋事件などで殺され復讐心に燃えていた幕府の役人らに情報を流し、直接手を下さずとも巧妙に暗殺に関与したことは、赤松暗殺事件の一連の経緯を考えればほとんど事実のように受け取れる。しかしそれを認めれば、今までの小説や映画ドラマ、果ては教科書までが全てご破算になるのだから、今の世間では事実であっても容易には受け入れられない。つまり「西郷どんは情に篤かひと」と言う厄介で思い込みの強い国民感情と言うやつがある。それに事実はどうあれ、竜馬と西郷どんは仲良し同志であってくれなければ、司馬遼太郎も大河ドラマも困ろうというものだから、メディアも諸説他説を持ち出して来ては、色々と屁理屈難癖を付けて今さら簡単には引かない。それでも、あれほど間近まで幕府の取締りから匿ったり物心両面で援助して交流していた人物を、武力討幕と言う目的の為に突然しかもあっさりと裏切り抹殺しているところは、赤松殺害事件の経緯とすこぶる酷似しているのだ。その後の日本の行き着く先を考えると、自分がいったん正義と思い込んだことなら躊躇なく決断する、実は西郷のその躊躇のなさが怖かったのだ。

 

事実上、赤松暗殺の黒幕張本人は、後年、下手人を自ら告白している中村半次郎が心酔しきっていた西郷であったことは、状況証拠も真っ黒けで誰が考えても自然明白であるのだが、天皇制批判同様に男色も絡んだ西郷批判も半分タブーなのであろうか、薩長史観に未だまみれているほとんどの日本人は、それどころか赤松暗殺事件の存在さえ知らないのだ(当時の薩摩藩の関係者は不自然なまでに、西郷の関与についてその後も一切口を閉ざしていたのだ。彼に絶対に類が及ばぬように。つまり、よほど西郷の事実とは全く違う清廉イメージ、例の敬天愛人を守ることが大切だったのだ)。そもそも日本人のほとんどは、中国人思考のコピーにしか過ぎない「敬天愛人」などと、まさに上っ面のイメージだけで、冷徹な陰謀家という認識はないのであろう。しかしながら因果応報とも言うべきか、西南戦争に至る彼の哀れな末路を考えると、それは目的の為には冷酷な陰謀手段をも辞さなかった彼の自業自得の結果とも思えるのだ。因みに、赤松の主君は積極的な開国通商策で、彼の大老井伊直弼さえもが辟易とさせられた、上田藩主であり英明な老中でもあった松平忠固であった(昔の映画やドラマの中に、いや今もたまに出てくる松平忠固とおぼしき人物、全てが紋切型に頑迷固陋で朝廷に弓引く、しかも影の薄い悪漢イメージに描かれている)。この赤松や坂本ら開明的な二人を西郷が無慈悲に粛清していなければ、その後の日本は大きく変わっていたに違いない。そのような視点から眺めると、広島長崎の原爆をはじめ、首里城や名古屋城や岡山烏城はおろか全国が焼けつくされ、北方四島まで奪われボロボロにされた、昭和二十年八月の薩長の目指した日本の惨状を思うにつけ、そのことを忘れて、未だ続く日本人の度の超えた西郷への崇拝ぶりと神格化はあまりにお目出度く、実に軽薄で目に余るのだ。

 

我が国における、幕末期の外国人排斥以外の何物でもなかった偏狭な尊王攘夷運動は棚に上げ、いやそれどころか英雄視して語るくせに、同じように偏狭で排他的行動に走った朝鮮人を見下した征韓論を見るまでもなく、幕末期に見せた、「敬天愛人」が聞いて呆れる陰湿な行為と終生続く藩主に対する文字通り封建的で卑屈なまでの忠義ぶりも併せ鑑みれば、彼が人民主義とは全く無縁の、大久保と同じ様な因循な国権主義者であったことに間違いはあるまい。政治から離れた場での彼の情け深さは認めるにしても、その彼が政治的思惑からこんなにまで神格化されているところに、明治以来の、叩き込まれ洗脳された変わりようのない日本人の意識の怖さを感じるのだ。吉田寅次郎と同じ様に、その良し悪しは別として道半ばで死んだことが都合よく祭り上げられ、さらに誇大に美化され、その後の天皇制軍国主義国家の正当化への思惑にぴったりの人物であった事は言うまでもない。しかし本当のところ、神格化された西郷よりも、その西郷の反乱に参加して戦死した熊本民権派の宮崎兄弟らが、当初そのことの矛盾を問われた時、「先ず西郷に国権主義の大久保を叩かせ、それから同じ国権派の西郷を討つ」と言った話しの方に、情だけに流されるのではない理の通った日本人も当時すでに存在していたのだと、同じ日本人としてはそちらのエピソードの方が誇らしく、些かなりともほっとするのだ。

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大統領の発言から窺えるアメリカの嘘

                     八月の広島と長崎に想う

巧みと言おうか何と言おうか、トランプ相手にあらゆる手段を行使して、人民の苦衷をよそに何とか自らの世襲体制だけは維持し続けようとするキムジョンウン。その力の源泉は何と言っても、かつての広島長崎の悲劇を教訓にした上での、まだまだ完成途上とは言え核をアメリカにちらつかせ続ける事にあることは先ず間違いがない。これは、誰もが認めざるを得ない冷酷な現実であり、また一面の真実でもある。かつての日本に、核の反撃能力のないことを見越しての原爆投下に過ぎなかったくせに、もっともらしく適当な理由を見つけていとも簡単に日本に原爆を投下し何十万人もの市民を殺したアメリカ。その証拠にあのアジアの小独裁国家に対して、最大の軍事大国トランプアメリカは経済制裁をちらつかせるだけで手も足も全く出せない状況にあるのだ。そのことを思うと、広島長崎に原爆が投下される以前に、キムジョンウンの様に、なぜ嘘であっても核の保有をちらつかせるだけの、いやせめて完成途上にあるとだけでも思わせる、そういった巧みな政治手駆け引きが我が国の政治指導者にも出来なかったのだろうかと残念でならない。そう思うと、落とされる必要の全くなかった二発の原子爆弾、返す返すも悔いが残るのだ。

ところで経済制裁以外、北朝鮮に対して何も出来ずにいるくせに、広島長崎への原爆投下は絶対に正しかったと未だ言い張り続けるアメリカ。核を使用しなければ戦争は長引き、もっと多くの死者犠牲者が出たなどいうトルーマンや、その後のアメリカの主張がいかに強弁に過ぎず白々しい嘘であったかはこの一連の出来事を持ってすればすぐ分かる。それが間違っていなかった、嘘でなかったなどと言い張るのであれば、かの独裁国家に対してなぜ今すぐにでも核を撃ち込まぬ。かつての日本にしたのと同様、一般市民の犠牲など全く考慮せず有無を言わさず、北朝鮮に一発落としてみるがよい。たちまち、北朝鮮独裁国家は日本と同じ様に全面降伏をすること間違いない。それがなぜ出来ない、なぜしないのだ。

まさか今の北朝鮮独裁体制の方が、かつての日本の天皇制軍国主義よりはまだ民主的であると言うつもりなのか?いや、絶対にそれは違う。それはかつて軍国日本が核による反撃報復が出来ないことを見透かされ、さらに日本人は人間ではなく猿とみなされ、世界世論も有色人種に対して無頓着で、白人優位の観点から単に人体実験をされたに過ぎぬからなのだ。仮に当時、日本に核の反撃能力があったならば、いや単なる噂だけであっても、そして万が一それが使用されることがあったならば、一時的に戦争に敗れても日本は報復のため、未来永劫アメリカ本土に対する核報復攻撃の権利を保持し続けるだろうとの強烈な意思を見せつけていれば、アメリカによる核の使用は絶対避けられたのだ。つまりアメリカは、つまらぬ言い訳をしているけれど、単純に日本に核の反撃が出来ないことを見越しての安直な核使用であった訳だ。そのことは米朝の今の力の均衡を見てみればすぐにわかる事ではないか。アメリカ本土に届くか届かぬかもわからぬ、この世界の最貧国北朝鮮の貧弱な核ミサイルの存在にさえ怯えて、経済制裁以外アメリカは何も出来ぬのだ。

嘘か誠か、当時カリフォルニア沖か、フロリダ半島近辺に核を積んだイ号だかロ号だかは分らぬが、日本の潜水艦が何隻も潜んでいるという偽情報を流し続けていれば、実際、広島長崎の悲劇惨劇は防げたのかもしれないのだから。いや絶対に防げていたのだ。凡庸な天皇制君主と、その後に及んで、未だソ連に講和の仲介を期待していた間抜けな田吾作政治軍事指導者どもを抱えた日本の悲劇でもあった。衷心から平和を希求する被爆者の心情を考えれば、この様な不謹慎な発言には非常なためらいを感じ、どうしようもないジレンマに陥り複雑な心境にもなるけれど、しかしこれが世界政治の残酷な現実なのだ。核を前にして、悔しいけれどこの世に神も仏も存在などしないのだ。

 

 

 

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句・短歌から察する日本語の不思議さ

芸術・文学とは言わぬまでも、微妙で繊細な人間の心の内を、わずかな文字数と音・訓の巧みな使い分けで自己表現しようとする俳句や短歌などは、表意文字である漢字をうまく借用しつつ、しかもかな文字を活かして、豊富な語彙を有し言葉の持つ独特な雰囲気を大切にする日本語にしか出来ない、表音文字主体の外国語には絶対見られない、日本独特の言葉文化であると言ったら大仰に過ぎるだろうか。さらに、その俳句や短歌を嗜むひとにはどことなく気品と風格も感じられるなどと述べたら、それこそ俳句第二芸術論的観点からの批判ではないけれど、今度は買いかぶりで少々褒めすぎであると言われるかもしれない。でも程度の差はあるとは言え、多くの日本人もきっと同じような感覚を持っているのではなかろうか。

 

唐突にどうしてそのように述べたかというと、些細なことではあるけれど、以前からちょっとだけ気になっていたことがあるからだ。よく獄中につながれている死刑囚や長期服役囚などが、冤罪を主張し無実を訴えたりする際に、むろん弁護士の特別のアドバイスがあったり、彼らに何かの思惑があったりする訳ではないのであろうけれど、何故か、勿体をつけるかのように句や歌を添えたりすることがけっこう多いからである。そんな時、日本語の持つ独特の響き・雰囲気というのであろうか、或いは外国語にはない語力とでも言ってよいのであろうか、又そんな風に思わせることが本来の目的でもないのであろうが、おかしなことに、その冤罪を訴えている死刑囚や長期服役囚に風雅・高尚といった趣きや雰囲気を与え、人間的にもどこか厚みが増したように感じられ、この人本当は、そんな悪いことの出来る人ではないのではないかと感じられてしまうから不思議なものである。それまで抱いていたマイナスイメージもどこかに吹き飛んで、実際のところ、どんなに怪しい人のものであっても、句や歌を添えられた無実の訴えにそれらしく説得力が感じられたりするから、句や短歌に対する日本人の思い入れというものは実に不思議なものである。そう考えると、やはりそれが彼らの思惑であるという穿った見方も出来なくはない。そう言えば、どこかのテレビの人気居酒屋番組に出演している御仁の、一見しただけでは粋とは到底言いかねる、がさつこの上ない飲み方食い方であっても、いや本来の酒飲みからすれば「俄か酔人」と言った方がむしろピッタリなのだけれど、最後にそれっぽく雰囲気のある一句が画面に映し出されたりすると、逆にその落差ぶりにも妙な感興が湧いてきて、彼、そんな趣味人だったのかと妙に納得し、本当の人間性は分からぬが、それまでのどう見ても野暮としかと思えぬ飲み方にも意外な趣きと人間味も加わるような心持がするから、やはり句の効用は絶大かつ不思議なものなのだ。

 

まして日本では、昔から清水宗治しかり浅野内匠守や吉田松陰もしかり、いくさに破れたり罪をこうむったりした武士などが、まさに腹を切り首をはねられる瀬戸際・土壇場になっても、自らの潔さを示すためなのかどうかは分からぬが、もっともらしく辞世の句などというものを必ずといっていいほど残してきたのだから、詠歌や句作に対する思い入れ、これはもう日本人のDNAに完全に刷り込まれていると言っても過言ではない。それでも歴史上、藤原定家を筆頭にして、どんなに有名な歌人や俳人であっても、その作品から抱くイメージとは正反対に、実際には人柄や人間性に何かと、いや大いに問題のあったひとも結構いたようであるから、よくよく注意されることも肝要である。平べったく言わせてもらえば、それがたとえ享楽的で低俗的な作品であれ、真理の追求とは言わぬまでも最低限の社会的テーマの追求と社会的主張が根底にあって、作者の思想それに人柄とか人間性、つまりその人の実相が作品に大きく影響してくる小説や評論と違って、詩を含めて俳句や短歌では必ずしもそれは必要では無く、むしろ情緒が大いに関係しながら、人間の持つ一時の激情や情熱の発散をそのまま作品として表現することが出来るからであろう。だから逆に、「えっ、あんな悪党が?」とか「本当は、とんでもない性倒錯だったんだ」などと別の感興をもよおすことだってある。実際、そうでなければ面白くない。だから中国などでも春秋戦国期以来、今に至るまで、逆にその否定的印象とは別に詩人としての才能を持った歴史上の権力者や悪役イメージの人物は結構いたようであるし、ヨーロッパ初の本格的詩人と言われた中世フランスのフランソア・ヴィヨンに至っては強盗犯罪や淫蕩行為を繰り返したとんでもない大悪人であった。さらにその後、特徴的に19世紀ヨーロッパ詩人の中には、まるでひけらかすかの様に淫蕩を繰り返したバイロン、それにベルレーヌとランボウといった倒錯的で反道徳的関係を結んでいたエキセントリックな詩人たちも結構いたようであるから、そのように考えると歌が巧く句が達者であっても、必ずしも世間で言うところの好人物で善人とは限らないのである。しかしながら、だからと言うわけではないが逆に人間的に問題のある人でも、詩作とは言わぬまでも俳句のひとつでももひねれるようになれば、人生得になっても別に邪魔になって損になる事もあるまいから、我々も詠歌・句作技術の習得に大いに励むべきなのかもしれない。その短さゆえに、素人でも万人の胸を打つ出会い頭の大ホームランをかっ飛ばす可能性だってあるわけだから、その言語の持つ特性を生かして日本人は日々大いに嗜むべきなのであろうか。

 

 

それにしても、たった15文字あるいは31文字の中で、余分な語を削ぎ落とすかのようにして、それでいて微妙な心のひだを十分言い表せるのだから、日本語も本当に不思議な言語ではある。本居宣長などの昔の国学者が、思い込みの強い国粋主義的心情からであったとしても、ことさらに言霊などと強調したことはあながち根拠の無いことでも無かったのかもしれない。細やかで豊富な語彙の表意言語と、日本人から見たら少々粗雑にしか感じられない表音記号言語の差なのかもしれないが、セム文字以来のアルファベットの単純な組み合わせに過ぎない欧米言語では、先ずこうはいかないのであろう。つまり、人間同士が共有する概念としての対象を、アルファベット26文字の順列組み合わせで瞬時に記号化して共有する行為は、対象概念がイメージ出来てさえしていれば、例えばウェブとかクラウドなどといった独特のインターネット言語のように、まわりくどくなく簡単で便利ではあろうが、やはりどこか味気ない。それどころかNATOやTPPと言った頭辞語の様に、前提となるそれまでの蓄積概念が無いと、真意どころかイメージすら伝えられない。だから当然、人間の持つ微妙な感情を言葉だけで、つまり数十字だけで表現することには当然不向きで無理があると言ってもよいのだろう。

 

もちろん俳句や短歌などのような字数制限のある極少表現は無理としても、詩や小説などの文学表現はもちろん、歴史書や科学書などにおける記述表現は、字数制限の特段設けられていない日常記録文化として、単なる言語伝達機能以上に機能し、文芸科学としてもそれなりに洗練され進化発展して来たのであろう。それどころか、ぼやけたイメージを概念化して表現できる欧米言語は、その特質から哲学などの表現にはむしろ最適であったと言っていいし、逆に精緻に意味を特定する日本語ではまわりくどい表現になってしまい、哲学は難解な学問であるという思い込みを日本人に抱かせてしまった。一方で、句・短歌により近い西洋詩であっても、表意言語に慣れ親しんだ日本人には、それさえも韻文ではなく散文詩という形体をとらなければ、その味わいらしきものが具体的に分かりにくい。そんな訳だから、世上、欧米の大詩人と言われる人物たちによる作品であっても、その原詩を辞書を片手に懸命に読んでみたところで、特に英仏語的表現になじみの薄い日本人には、どことなく味気なく感じられ今ひとつ雰囲気がつかめない。しかしながら、上田敏や堀口大学らの教養ある優れた文学者達による絶妙な味付けと日本語独特の味わいによる意訳で、バイロンはもちろん、ベルレーヌとランボーとの微妙な関係を含んだ韻文でさえ、そしてハイネにカール・ブッセ、それにワーズワース、さらにシェリーやオスカー・ワイルドなどの作品を、それはスコットランド民謡をどこか懐かしげに聴くひとのように、日本独自の詩であるかの如く錯覚して、おそらく原詩以上の雰囲気で堪能できるのであるから、そういう意味では我々日本人は本当に幸せである。「逆はかならずしも真ならず」と言うけれど、反対に、日本の句や短歌や抒情詩に含まれた、日本人独特の雰囲気と微妙な味わいを外国人はどのように理解することが出来るのであろうか。少ないボキャブラリーで、一体、語彙豊富な日本語の味わいを理解し堪能出来るのであろうか。いや、そもそも日本文学そのものと言っていい川端や谷崎や徳田秋声の小説と、それは文章的味わいも当然そうだけれど、日本人から見れば文章力の上手い下手の巧拙も含めて対極に位置する、英文を直訳しただけの様な(筆者にだけ?)村上春樹の小説との違いが、はたして彼らに理解出来るのであろうか。そういえば、卑近な例ではあるが映画の題名にしてからが、外国映画の原題は何とも味気ないことが多く、逆に気取りすぎではないかと思えるほど雰囲気たっぷりに変えられた、日本語での外国映画タイトルとのギャップに思わず戸惑うことも多い。たんなる映画タイトルからしてこうなのであるから、逆に、彼ら外国人はどのような思いで自国の詩を味わっているのであろうか。別の意味で興味が感じられ、このあたりのことは、日本語と同じ程度に英仏語を操れる人に、理屈ではなくその微妙なニュアンスをうかがってみたいものである。万葉以来の、侘び寂びと言った日本人独特の美意識は、侘び寂びが先にあったのではなく、その日本語独特の性格に起因していることは間違いあるまい。いや、その辺りの事情はよく調べた訳ではないのでいい加減な事は言えないが、いやおそらくそうであろう。

 

ところで「柳多留」などで江戸時代に多く詠まれた川柳などには、あの俳句や短歌などのように自分を飾ったりお高くとまったりしたところがなく、洒落を巧みに利かせながら、また無駄な言葉の修飾もなく、そこに描写された日常のさりげない情景が、今になっても当時のままの息遣いとともに生々しいイメージで蘇ってくる。時代の雰囲気と当時の人間の生活の臭いが、俳句や短歌以上に、つい昨日のことのように伝わってくるのである。言葉から読み取れるユーモアが不思議なリアリティをもたらし、気どりの無い人間の心の内が分かって面白い。そう、たった15文字の中に素直に詠み込まれた当時の人物・風景が、時代を超えて、まさに今のことのように伝わってくるのであるから本当に感動である。そこが日本語ならではの、生きた言葉の何とも言えぬ魅力なのであろう。まさに言霊と言えば言霊である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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分りやすい天皇制批判 万世一系という名の幻想

                                           1   分かりやすい天皇制批判

 

昭和天皇崩御の頃の、それこそ日本中を覆い尽くしたかの様な一億総自粛ムードではないにしても、間近に迫った現天皇の生前退位やそれに絡んでの改元問題などと、何かと鬱陶しい昨今ではある。実際問題として、西暦と元号の併用という今の制度のままでは、これから先天皇が変わるたびに、益々もって日常生活での暦の読み替えやひとの年齢計算が、そしてそれ以上にビジネスでの使い分けも煩わしくなって行く訳だから。しかし、元号制度がもともと中国王朝の模倣だったとは言え、それでも漢字同様に我が国に深く根付いた歴史文化には違いないのだから、たとえ天皇制の政治的権威付けと緊密に結びついて来た経緯があったにしても、それをもって、今すぐに廃止しろなどと野暮なことを言うつもりは毛頭ない。これから先の運用の仕方だけが問題なのであって、だいいち国論を二分するほどの大した問題でもない。ただ一部の特権的な輩の間で、極めて恣意的に元号名が決められるのはひどく不愉快な話だけれど、逆に国民投票で決めるほどの大した問題でもあるまい。

 

ただし、その元号と密接な関係にある天皇制というデリケートな問題になると、合理的かつ条理的基準でしか物事を判断できない人間にとってはそうもいかない。けれど、タブーに関わることで自分の意見を述べたり、腫れ物に触ることによって生じる他人との争いが苦手な日本人は、腹の中では天皇制はちょっと変だよな、いや頭の中でよくよく考えてみてもやっぱり納得がいかない制度だよなと思いつつ、それでもメディアはもちろん世間の人も誰ひとり、それも憚るように、反天皇制的言辞は勿論の事、身分差別というこの単純明快な矛盾をさえ口にしないものだから、やっぱりそれを気にしたり口にしたくなる自分ひとりだけが変わっているのだ、それをしない世間は常識的でそれが大人なんだなどと自ら納得させるように心に言い聞かせて、そのことについての不平や不満や疑問を一切面に表わさない。もちろん口にも出さない。皇室問題に関しては、大体が日本中いつもそんな調子だから、その肝心の天皇制なるものの実体が何たる物なのかをはっきり理解している日本人が、もちろん世論調査も行われぬぐらいだから、果たして今の日本にどの程度いるのかさえ見当もつかない。せいぜいが一部メディアによって、しかも世間がいつも油断をしている隙に、唐突に「国民のほとんど多くは皇室に親しみを感じている」などと勝手なイメージ操作で、それもどこでどうやって調べて来たのか根拠も示さず、一方的で都合の良いニュースを流す程度である。さらには、そのことに対する世間の反応は極力曖昧にして、大方の国民は概ね了承しているかの様に、そして親しみを感じていない人間はあたかも非国民か変質者でもあるかのように世間の雰囲気を誘導する。では、「国民の多くが親しみを感じなくなったら、皇室もおしまいになるのですか?」と、つい突っ込みを入れたくなる程度のあまりに幼稚で根拠の薄い、結局は宮内庁の維持と天皇制護持のための、体制メディアによる都合のよいプロパガンダなのである。

その程度の世間の雰囲気であるから、自分の意見は持たず他人の目だけを気にする多くの日本人は、当面、自分自身の生活に差し迫って具体的影響が出て来ない限り、今ある天皇制に対してはそれほど意識せず、何となく曖昧模糊とした気分でいるのではなかろうか。反対するのであれ支持するのであれ、他人の意見と世間の動向、そしてその時の気分次第でどちらにでも転んでいく様な、ただ何となくと言う程度の認識しか持ち合わせていないのが実情であろう。もっとも逆に、その方が今の日本社会にとっては、あえて波風を立てるよりも全てに都合がよいのかもしれない。何故ならば、体制を仕切る政権や宮内庁にしてからが、戦前の偏狭で狂信的な皇室崇拝者の数が増えて、せっかくうやむやにされていた昭和天皇の戦争責任と敗戦責任が逆に蒸し返され、さらに身分制度の根源的な矛盾が露呈するよりは、せいぜいが一般参賀で、それが奇特で幸せな人たちだけであったとしても、どこかの独裁国家の人たちと同じ様に無邪気に小旗を振っていてくれさえすれば、つまり今のままの大方の日本人の無知と無頓着ぶりとで社会全体がただ何となく平穏無事に過ぎていってくれさえすれば、当面はとりあえずそれでよしと思っているに違いないのだから。ただでさえ、「大嘗祭は皇室の私的行事である。そこに公的経費が支出されるのはおかしい」と言った意味の発言が、当の皇室関係者からなされる時代になっている。ある日突然、何かのきっかけで憲法論や元首論以前に、国民が宮内庁も含めた皇室予算の少なからぬ金額への不平不満をあからさまに口にするようになったり、身分差別という天皇制の持つ実に単純な矛盾に日本人自身が気付いて声を荒げるようになったならば、そして今の天皇制を辛くも維持している、日本人の心の微妙な平衡感覚が崩れたならば、つまり、お猿さんや未開の土人でいることから脱却して、近代人らしく真っ当に賢く考えるようになってしまったなら、おそらく今の形の天皇制もそう長くは持つまいから。

しかし、つくづく考えるに天皇制も、それへの歴史事実の正しい認識と客観的事実に対する理解に基づいて支持されているのならまだしも、何となく曖昧な根拠と社会の雰囲気、そして日本人の近代的合理精神と問題意識の欠如を前提として成り立っているのだとしたら、実に寂しい限りではある。いや、そもそも如何なるものであっても、「一君万民」などと正しい歴史認識に基ずく身分制などこの世に存在する筈はないのだ。人間差別という、その身分制的側面をうやむやにしようとしてか、逆に奴隷制度、つまり黒人差別の伝統の上に成り立ってきたという歴史的事実を忘れたかのようなアメリカの上流社会を突拍子に持ち出して来て、そこに属するエリートアメリカ人たちの多くも憧れ尊敬しているからと、鼻につくほどの厭らしさと白々しいコメントイメージで、ことさら日本のメディアが喧伝し吹聴する英王室も含めて、それはインドのカーストと五十歩百歩の関係に過ぎないのだ。

 

                  

                     2 万世一系という名の幻想

ところで、全く持って馬鹿馬鹿しい限りではある。神武・綏靖・安寧・懿徳それに考昭・考安など架空であろうとなかろうと全くお構いなく、全国民がひとり残らず歴代天皇名の丸暗記を強要されたのを手始めに、時の権力者に成り上がった薩長のイモ侍・イナカ侍たちによって徹底的に皇室崇拝を叩き込まれ、挙句その後、勝手に天皇の赤子とされ、剰えその「御真影」なるものまで後生大事に拝まされてしまった戦前の日本人はもちろんのこと、そのくびきから解放されたはずの今の日本人の中にも、未だその催眠状態から完全に脱却しきれずに、北朝鮮軍事パレードもどきの皇居旗振り参賀などにはしゃぎまくって、それまで思い込まされてきた「万世一系」という字面と言葉の重々しそうな響きから、皇室制度つまり天皇制は、神武以来、嫡流の長子相続が連綿と続いてきたものと頭から思い込んでいる人達が結構いるようだ。さらに最近の女性天皇論の賑わいぶりに惑わされて、逆に神武や神功という名前さえ区別出来ず、推古も皇極も後桜町も知らず、いまだ男子だけの相続が延々と続いてきたものと思い込んでいる人たちも多いに違いない。しかも何かの折に気分が高揚したりすると、すぐ偏狭な愛国者になり下がってしまう情緒的日本人の中には、ちょっぴり誇らしげに、「我が皇祖皇宗、国を肇るに」とか「我が国は、万世一系にして」などと、いかにもそれっぽく口にしてしまう連中も意外と多い。それどころか天皇制護持をライフワークに掲げる右翼歴史学者の中には、、それをどこで仕入れてきたのかは皆目分らぬが、神武のDNAなどと言う誰にも考えつかない想像上の証拠品を突然持ち出して来て、男系男子を皇位継承の必須条件として、もっともらしく公然と女性蔑視的発言を繰り返す輩も出て来る始末だから全く手に負えない。

 

しかしながら北畠親房や徳川光圀といった生まれながらの尊王論者で無いにしても、多くの日本人が記紀はもちろん、史書や研究書を少しでも読み込んで真っ当に解釈して理解出来るようになれば、そして天皇名の丸覚えだけでなく、歴代天皇の皇位継承の経緯とそれぞれの事績に少しでも理解を深めて精通すれば、彼らの様な先天的に生まれついた熱烈な尊王主義者とは全く逆に,天皇制の内実がそれ程畏れ多いものでもなく、つまり万世一系などとは全くかけ離れた代物に過ぎず、また現人神でもなく、それどころか全く俗に流されやすい極めて普通の人間であった事にすぐ気付くはずである。天皇にまつわる歴史文書や資料が、公家や一部の武士と言ったごく少数者に独占されていた昔と違って、それどころか戦前戦中の徹底的な言論統制から解放されて、普通の国民がその事実を知って正当に判断出来る環境にあるのだから、少しでも多くの人間がその気になれば、すぐにその馬鹿さ加減も分かろうというものだ。早い話が、その気にならない国民の無知と怠惰に付け込んでの今の万世一系なのだ。つまり、天皇制を維持しているあの仰々しさは、99パーセントの無知と無関心の上に成り立っていると言っても過言ではない。

だからその気になって万世一系の内実を探ってみれば、それの実態はすぐに分かろうという代物に過ぎないのだ。つまり、いつの時代にあっても順当な皇位継承者がいなければ、そこに神威的アマテラスのご託宣があった訳でなく、実に人間臭い利益関係者や小知恵の利いた連中が、いつの間にか何処から適当に遠い縁戚縁者を見つけ出してきては、もっともらしく辻褄を合わせていたに過ぎないという歴史的事実に容易にたどり着くのだ。今風に有体に言えば、養子縁組に養子縁組を重ねて、何とか家名だけは保って来たと言うところであろうか。それさえもどうしようもなくなった時に、窮余の策として、例の刃傷沙汰で有名になった富岡八幡のきょうだい宮司よろしく、極めて身近の女性縁者を皇位に担ぎ出し、取りあえず適当な男子皇位継承者が現れて来るまでの繋ぎとして、無理やり系図上の点と線だけを取り繕って来ただけに過ぎない。史上、女性天皇による重祚が二度も行われたということは、危機に瀕し続けた万世一系を取り繕うためには、なりふり構ってはいられなかったという何よりの証左である。女性天皇論で賑わった最近の皇室問題は、まさにそうした天皇制の抱える脆弱性と血縁性の矛盾を露呈したものであった。そうした事実を見据えると、家柄や血筋に拘り続ける人たちは別にして、果たして、DNAまで持ち出して維持しなければならぬ必然的身分制度なのだろうか。第一に神武そのものが架空の人物であった事は、学術論争の必要さえ無いほどの歴史的事実なのだから、今さらDNAも何も有ったものではないのだ。皮肉なことではあるけれど、そこまでDNAに拘ると、実際には、考えらぬほどの膨大な数の神武の男系男子が日本中に溢れかえっていくことになる。

それでも確かに、その異常すぎるほどの近親婚と血縁婚の繰り返しで、あの天皇家独特の風貌とDNAが出来上がって来た事だけは誰にも容易に想像はつく。件の歴史学者の主張は、あくまでも万世一系が連綿と正しく続いているとの仮定の上での理屈なのであろうが、しかし、そんな遥か昔のDNAなど、今さら持ち出す事自体奇想天外に過ぎる。なりふり構わずにとは、まさにそんな事を言うのであろう。その伝で行くと、存外、戦後次々に現れた自称天皇たち、中でも南朝後亀山天皇の末裔を名乗る「熊沢天皇」の方が、後述する南朝正閏論から言えばもっともらしく実証的であり、化学的に調査したらDNA的にはそちらの方が純粋でより神武に近かったりする可能性も有る訳だ。しかし、それはともかくとして、先祖がいて初めてその子孫が存在する訳だから、大王なのか九州の豪族首長なのかは分らぬが、誰かそれらしき最初の人物が当然存在した訳だし、神武と思しき人物に比定されてしかるべき、つまり初代と目される特定の先祖は当然居たには違いない。しかし残念ながら、春秋や史記や三国志などの様に、記録すべき肝心の歴史文化が、残念ながら非文明国でもっとはっきり言えば野蛮国だったその頃の我が神国日本には全くもって存在していなかった訳だから、その特定は至難の業である。でも逆に、それはその後の天皇制絶対主義者や尊王主義者には非常に好都合だったと言わざるを得ないのだ。何故ならば、文字が存在せず史実が明るみに出て来ない以上、それまでの歴史とそれからの歴史を、何とでも都合よく好き勝手に作り替えることが出来た訳だから。

 

                 3  二百五十年にも満たぬ閑院宮による現在の天皇家

ところで、実はそれほど遡らずとも、天皇制の歴史と内実を窺い知ることは出来る。要するに早い話、今の天皇家にしてからが、18世紀後半、明治天皇の曾祖父にあたる師仁親王が傍系の閑院宮家から、正当で必然的な理由と言うより、つまり人物評価や血縁的優位性を根拠にした訳でもなく、当時たまたま独身で身軽な立場にあったと言う非常に分かりやすく軽い事情だけで、既婚者の長兄を飛び越え血脈の絶えた天皇家に養子として入り、既に亡くなっていて跡継ぎがいなかった後桃園の後を襲って119代天皇(光格)になったに過ぎない。ちなみに、閑院宮家の創設は天皇家の断絶を危惧した新井白石らの力に負うところ大であり、後年薩長の田舎侍・芋侍によって徳川家が朝敵扱いされる理由などさらさらなく、むしろ天皇家存続の恩人なのである。

ところで、かつての光仁天皇や光孝天皇にしても、光の字がつく天皇はいづれも本家の血だねが絶えた時、苦肉の策として何代にも前に遡り、とんでもないところから天皇に迎えられている。そう言う経緯だから、当然光格の父親も祖父も天皇では無かった訳だ。分かりやすく言えば、オリンピック贈賄問題で、今よくメディアを賑わす竹田JOC会長が、女だ男だと言ってたまたま皇位継承者がいなくなかった時に、政治的環境と系図上の理由だけを根拠に何代も遡って、ことさらに神格化されて天皇になるようなものであった。だから、そんな歴史的経緯を厳密に考えれば、現在の皇室はたかだか二百年ちょっとの伝統でしかないということになる。北朝鮮の金王朝でさえ直ぐに追いつく、これが万世一系の実体と歴史である。つまり、世界に誇るべき我が神国の天皇制と言うけれど、二千年この方ずっとこの様に、同じ方便で広義に広義の解釈を重ねて、無理やり維持して来た天皇制という制度の為の天皇制なのだ。光格もその辺りを意識していたのであろうか。それまで数百年も廃れていた大嘗祭など、天皇家の私的行事を無理やり宮中行事として復活させ、さらには冷泉以降800年近く用いられなかった天皇号も復活させ(歴史事実として、天皇ではなく冷泉院とか言うように)、しかも天皇でもなかった自分の父親に太上天皇の称号を強引に与えようとして、いわゆる尊号事件を引き起こし、天皇としての自らの権威付けに躍起になっている(天皇号が正式に認められたのは明治以後に過ぎない)。だからその甲斐あってか、取ってつけたようなそうした皇室の私的年中行事や慣習をも、今の日本人は長い間滞ることも無く、二千年間連綿と続いてきた日本独自の公式伝統行事と思い込んでいる。俯瞰してよく観察してみれば、それが歴史上の僅かな一定期間に過ぎないことは明確に分かるのだが、人間はどうしても自分の生きてきた時間だけに遮られて、昔の事物を曖昧に判断する傾向がある。それは千年二千年の歴史であったとしても、冷静に捉えてみれば誰にでもすぐに気付く客観的事実なのだが、その俯瞰的視点を欠いてしまうと、過去の歴史の流れが今の壁に遮断されて全く見えなくなってしまう。

さらに悪いことに、現代の日本人もまだその多くは情緒的にしか歴史を認識しようとしないから、たとえ明治以来の恣意的で偏った薩長史観の残滓であると薄々分かっていても、それにさえ少なからぬ影響を受けてしまう。つまり、それがどんなに荒唐無稽な神話やお伽噺めいた作り話であっても、日本人として何となく耳に心地よければ、イメージだけで普遍的な事実であったかのように簡単に思い込んでしまう。今でもそんな有様なのだから、偏狭な民族主義と天皇制軍国主義が猛威をふるった戦前の事情は容易に想像がつく。封建制度の崩壊という、本来は近代国家の幕開けが訪れていなければならなかったはずの、明治から敗戦に至るまでの数十年、逆に当時の日本人の多くは、王政復古という美名のもとに、そうした歴史的事実をも理解させられずに、また目を遮られるようにして、架空を含めた歴代天皇名までうやうやしく丸暗記させられていたのだ。要するに明治が始まるまでの数百年の間、ほとんど全ての日本人が、天皇に対してはある意味健全な意識の持ち主であったにも関わらず、封建制度が崩れた途端あべこべに、それまで山県大弐や蒲生君平や吉田松陰といった、何が何でも御所のミカドを特別扱いして有難がる風変わりな人物を除いては、全く縁の無かった熱烈な尊王主義者に、薩長の田舎侍芋侍どもによってひとり残らず仕立て上げられてしまっていたことになる。今、冷静に考えれば滑稽な話ではあるが、明治以降の国民はそういう状況に疑問を抱かず、いや疑問に至るまでの知識さえ有していなかったのかもしれないが、逆に疑問を抱いた人間を非国民扱いしていたのだから、実に奇妙で不可解な時代ではあったのだ。有体に言えば、日本人全員が歴史の自然な流れに逆行して生きる反動の時代であった訳である。

 

                   4 大ざっぱで分かりやすい天皇史

それはともかく、古事記や日本書紀などを読みながら歴史を遡ってみれば、神代七代はさすが荒唐無稽に過ぎて、よほど奇特な人は別にして、いくら何でもそれを歴史的事実と考える人は今ではさすがにいなくなった。けれど戦前日本では、聖書や仏典の様に宗教書としてならばともかく、国家がその荒唐無稽話しを歴史教育の中で半ば事実の如く国民に信じ込ませ、しかもそれを本当に信じ込んでいた人たちも結構いた訳であるから、考えてみれば滑稽さを通り越して空恐ろしい時代ではあった。しかし、そのことは別にして記紀はそれなりに、旧約聖書同様に英雄譚や伝承伝説と割り切って読めば実に面白い。信憑性はともかく、いや歴史事実はそれほど無いが、何か一定の歴史上の比喩を暗示しているのだろうから、その限りにおいては存在価値のある、歴史的資料としてもそこそこの意味はある。だが、それを持ってまともに歴史を論ずるにはまず無理があろうというもの。しかし戦前日本は,、その荒唐無稽話しをほとんど全て歴史的事実として、まともに国民に押し付けていた訳であるから、ボーッとしていた人達はともかく、常識的知性の持ち主には精神的に到底耐えられない時代でもあったのだろう。

その程度の万世一系ではあるけれど、とにかく昔を辿ってみると、神武から開化は甚だ実在性が疑われるから時代だから端折らせてもらうとして、まともに論ぜられるのはまあ10代目の崇神あたりからだろうか。おそらく神武の東征神話になぞらえて、この辺りの渡来系勢力が九州近辺から出て来たことは十分考えられるが、それは推論だけで確証は無い。そしてその後、垂仁、景行、それに日本武尊を絡ませて成務、仲哀、応神天皇と続くことになるが、この辺りの繋がりが一番怪しく胡散臭い。何故ならば、応神は熊襲に殺された仲哀と神功皇后との間に生まれた、つまり三韓征伐の時の神功の腹の中にいた胎中天皇ということになっているけれど、それが実に辻褄が合わないのだ。つまり、父親の仲哀の死亡時期と応神の生まれた時期が馬鹿馬鹿しいほど合わないからだ。それでも神功と息子の彼が実在したとすれば、その時によく名前が出てくる武内宿禰あたりが本当の父親とも考えられる。もっとも竹内宿禰自体も実在を相当疑われる人物だから確かなこととは言えない。逆に言うと、戦前当たり前の様に教えられていた三韓征伐などの言い伝えは、それほどいい加減な話しなのであった。おそらく、記紀やその他の記述などから類推すると、仲哀天皇の皇子であり応神の兄とされる二人の人物が殺されたこの時期に、崇神王朝と応神河内王朝の交替があったことは十分考えられる。このあたりは諸説ありだから、もちろん細かいところまで断言は出来ないが。しかし、それ以前の4世紀あたりに、広開土王の碑文などに記されているように、おそらく崇神朝時代の王か九州地方の豪族たちが、百済からの支援の求めに応じて朝鮮半島に出兵を繰り返していたのは確かであろう。その後、倭の五王の時代を経て、種々の暴虐行為で有名な武列の死で応神朝は取りあえず終焉するのだが、この後を引き継いだ継体朝の成り立ちが実に興味深い、と言うか滑稽ですらある。つまり、今の天皇家が確実に遡ることの出来る最も遠い先祖縁戚なのであるが、最初に皇緒の意向を打診された時のおほど王、つまり後の継体天皇の対応が、「白馬に跨った」などと、よくある王位伝承にまつわる権威的かつ伝説的な物語とはかけ離れていて、間が抜けているとしか言い様のない経緯なのだ。伝説を創りだす余裕も無かったほど、事態は切迫していたのかもしれない。

彼は既に老境に入っていた若狭の地方豪族であったのだが、迎えにやって来た大伴金村や物部麁鹿火らの有力大和豪族が信用出来ずに、若狭の山奥に逃れ隠れて、暫らくの間躊躇して王位につくことを拒んでいたぐらいなのだ。それどころか、それに先だって皇位の継承を要請されていた、継体よりもより正統性の強い仲哀5世孫の倭彦王などは、それ以前に恐れおののいて何処かに逃亡してしまっている。つまり万世一系などと大仰に言っても、始まりは所詮その程度の、全く有難みも威厳も感じられぬ存在に過ぎなかったのだ。当時の有力豪族にとって大王の地位など誰でもよかったのであろう。そのうえ、継体が皇位に就いてからも他の反対豪族の勢力は相当強かったらしく、二十年近く大和の地に入れないでいたのだ。しかも、彼は応神天皇5世の孫と取り敢えずはなっているけれど、それが本当だとして応神は実に二百二十年前、11代前の大王である。まさに赤の他人とはこのことを言うのであろう。悪逆の新皇と貶められた将門だって、桓武天皇5世の孫であった。政治環境や社会状況のちょっとした綾だけで、後世の歴史的評価に、これほど天地の開きがある訳だ。それでも継体も将門もDNA的には全く同じレベルの話しであろう。戦後の混乱期、既述したように「熊沢天皇」などといわゆる自称天皇が全国に次つぎに出現したけれど、DNA的には存外、的外れでは無かったのかもしれない。いや実際は、より神武に近かったのかもしれない。それはともかく、継体が今の天皇家の祖としても、実際1500年の歴史は有るわけだから、それはそれで歴史的学術的存在理由は当然有るし、更なる学術研究も必要になってくる。しかしそれでも、その内実と成り立ちは前述したように、無理やり遠い子孫縁戚を引っ張り出しての、それも女性縁者まで利用しての継承の繰り返しであったことに間違いはあるまい。だから、この伝でいくと北朝鮮どころか、どこの馬の骨か分からぬ一族であったとしても、全て万世一系になると言う代物なのである。つまり事実上の皇位が絶えるたびに、遥か昔の先祖が一緒であったと言う程度の理屈で、既に赤の他人になりきっていた遠い縁戚を連れてきては、中には嫌がる者もいたであろうに、それでも皇位を無理やり継承させていたに過ぎない。

さらに加えて、その後の歴史の中に忽然と現れる、南北朝時代と言う文字通りバサラの時代をめぐっての、どちらの系統の皇位継承行為が正統であったかという南北朝正閏問題が浮上してくる。これはもちろん南北どちらであったにしろ、差別という根源的な矛盾を含んだ政治制度と言うことでは五十歩百歩なのだけれど、平等思想や人権意識など当然皆無の時代であったから、それはひとまず横に置いておいての話しになる。今じっくりと、天皇制という政治的身分制度の歴史の経過を俯瞰して客観的に精査するならば、情緒的で非合理的根拠は別にして、つまり北畠がどう詭弁を弄しようとも、そして楠木がいかに忠臣ぶりを演じようとも、北朝の正統性は揺るぎのない歴史事実なのだ。けれど、その極めて明白な事実も、昔は単純に雰囲気や状況によって、そしてこれが一番大きな要因であったけれど、その時代の政治的思惑を含めた極めて恣意的で意図的な政治観が幅を利かせるようになっていく。そうした時代の流れの中で、その流れを利用するかのように、吉野朝が正統と言う歴史的実証と言うよりも歪んだ政治観が影響力を広げていく。政治観の違いと言ってしまえば身も蓋もないが、要するにひいきの役者を自慢しあうようなもの、好き嫌いの情緒的レベルでの話なのである。それでも幕末期までの数百年の間は、とりあえず北朝の正統と言う政治的には極めて合理的な見方が世の中の主流ではあったのだが、明治期に入るとそれが一転して不自然なまでに南朝正統論が優勢となり、極めて乱暴で恣意的な歴史観に変換されるようになっていく。

 

 

                      5  皇位系統の矛盾と怪しさ

本来、皇位継承という行為は正嫡や血筋の優先する血縁的身分制度なのだ。その意味では、兄の持明院統から繋がる北朝の皇位の方が弟の大覚寺統の南朝より正当性を有するのは、天皇家の系図を見なくとも分かる明白で一般的な歴史事実である。実際にその後、南朝は北朝に吸収されるようにして姿を消していくのだから尚更であろう。しかしながら、ここが大問題なのである。その後の歴史書は何故か悉く何故か、その部分を曖昧にしているから、未だ多くの日本人が現在の皇室が南朝系だと思い込んでいる。しかし皮肉なことに、当時あれだけ誹謗された北朝光厳系の子孫が、実際にはその後の天皇制の系譜を維持していたことになる。どういう腹づもりだったかは知らぬが、その末裔たる明治天皇が南朝を正統と宣言したことは甚だしい自家撞着ぶりを見せたことになる。彼自身、後醍醐の血は全く入っていないにも関わらず、そして当然彼もそれを知っていた訳だから全く持って不可解極まる。祖霊を冒とくしているとしか言いようのない実に破廉恥な行為なのである。彼を取り巻く政治勢力からの、つまり長州の中間奴の分際に過ぎなかった山形有朋らの、不敬な強要や恫喝が相当あったとしか考えられない。こうした南朝に対する勝手な思い込みと、明らかに歪んでいるとしか思えぬ恣意的で情緒的歴史感がかつてあったにも関わらず、何故かそれらを無視するような雰囲気が今の日本には、まだかなり漂っている。実際、無徳の後醍醐が今の皇室の祖先と思い込んで小旗を振っている日本人が多すぎるのである。つまり99パーセント以上の日本j人はその程度のレベルなのだ。

遡って考えれば、そうした雰囲気を代表すように、光圀が作らせた「大日本史」あたりが「三種の神器」を根拠にして南朝正統論の雰囲気を世間に蔓延させる契機になったのだが、一種のナルシズムとも言える新田義貞や楠正成の忠臣ぶりに対する過大評価や、逆に歴史の客観的経緯や合理性を無視したため、理論的根拠に欠け極めて情緒的なのだ。親政を目指した後醍醐天皇を英雄視するあまりに主観に流されて、まさに歴史を客観的に捉えられなくなっている。南北朝期の只中で「太平記」を読んで、その分かりやすく華麗な和漢混交文で描かれた劇的表現に酔いしれ、そして新田や楠らの卑屈とも言えるマゾチックな忠臣ぶりに多くの武士が心理的影響を受けて南朝ファンになっていったことは十分考えられることであるから、南朝正統論と言っても、その根拠は政治的なものばかりでなく、存外そのあたりの好き嫌いと言った情緒的レベルにもあったのかもしれない。その先がけとなった「神皇正統記」にしても、有徳政治と「三種の神器」の存在を挙げて南朝の正当性を主張していたけれど、有徳を説くのであればそれこそ堯・舜・兎の時代に倣って、徳を欠いた後醍醐よりも、血縁を無視して民間の中からより有徳の人物を探し出してくればいいのだし、それに先立つ後鳥羽天皇の践祚の時にも、「三種の神器」は安徳天皇と共に壇ノ浦の海に沈んでいて存在しなかった訳だから、どちらも苦し紛れのこじつけの理由にしかならない。そもそも南北朝での後醍醐天皇への評価が過大なのだ。たとえ北条政権打倒に功績はあったとしても、そして万が一大覚寺統に正統性があったとしても、そもそも彼自身その大覚寺統の中では、長兄の後二条天皇亡き後、その息子に引き継ぐまでのワンポイントリリーフに過ぎなかった傍流なのだ。本来、天皇家の筋目正しい伝統を重んじるならば、兄の子供に皇位を潔く譲らねばならなかったのにである。結局、いつの間にか正嫡の甥っ子からその地位を簒奪したまま居座っていたに過ぎない。本来は、歴史上よく出現する「非道の叔父」という、彼こそ逆の評価を受けてしかるべき天皇であったのだ。

しかし、その後の南北朝の歴史の中で、すっかり天下の不忠者に仕立てあげられてしまっていた足利尊氏らのお陰で、それも明治以降の僅かの間にだけ、すっかり正統のイメージが出来あがってしまった人物に過ぎない。楠らのマゾヒズムの極致とも言える忠臣ぶりからは対極にあった、現実主義者の常識人、足利尊氏にかぶせられた大悪人という作られたイメージの上に徳川将軍をなぞらえての、江戸幕府討滅のための明治新政府の口実作りであったのであろう。戦前日本では、この当たり前の疑問を呈して非難弾圧された人間のいかに多かったことか。それこそ、足利尊氏を正当に評価しようとして、無理やり大臣を辞任させられた人物もいたぐらいなのだ。今考えても空恐ろしい時代ではあった。この辺の事情を知ってか知らずか、「教育勅語にもいいところはあった」などとはよく言えたものである。楠公も忠臣北畠もその辺りの事情をどう判断して行動していたのか怪しいが、とにかく合理的根拠からの支持では無く、極めて情緒的であったであろう事は以上述べた如くである。つまり後醍醐は、世間のムードを上手く利用しながら、嫡流傍流を全く無視して出現した異常なまで自己顕示欲と権勢欲の強い、文字通り異形の徳を欠いた天皇と言うことが出来るのだ。

 

そうした歴史状況を経た後、つまり南北朝合一後から暫らくの間、日本人と言うよりも一般民衆の意識の中で、天皇家などは全く在って無きが如き存在に過ぎなくなり、政治的にも何ら意味を為さぬ様に変質していく。敗戦直後、天皇制の廃絶を危惧した勢力が必死になって、「天皇家があるからこそ日本人がひとつにまとまることが出来る」とか「天皇制が日本の共産化を防いでいる」などと、その存続の為にもっともらしく根拠不明のプロパガンダを必死になって展開したけれど、周知の様に南北朝以後の数百年、百姓などのほとんど大部分の民衆の意識の中に常にあったのは、それぞれの土地の直接の領主であったり公方様であったのだ。京の都にあっても、京童達が壊れて崩れかけた御所の築地塀の中に入り込み、当たり前の様に毬つきやかくれんぼをし、好き勝手に遊んでいた時代でもあったのだから、天皇がどこに居ようが居まいが一般庶民にはそんなもっともらしい政治的言い草(プロパガンダ)など全く無縁であった。しかも童たちを誰が注意するでもなく、また築地塀を修繕する金も無く放置されたままの、文字通り天皇不在の時代でもあったのだ。よく天皇制が二千年ほど続いてきたことに、世界にたぐい稀な我が国特有の君主制などと、やたら自意識過剰気味にことさら特別な意味をつけたがる輩がいるけれど、実際はこのように近年の五百年近くに亘って、ほとんど全てと言っていい日本人の意識から、そのような有難い天皇家の存在など消え去っていたのだ。しかし逆に政治の表舞台から消えていたことは、怪我の功名と言うのか、災い転じて福となすと言うのか、結果的に天皇制の存続のためにはよかったのかもしれない。仮に白河から数代に亘って続いた院政政治や後醍醐などの天皇親政体制が何かのきっかけで長引いていたならば、それこそ天皇家は民衆の怨嗟の的になり、逆に信長や秀吉的な武士の反逆にあって滅んでいたことは間違いない。何か神威的で必然的な理由からではなく、幸運と単なる歴史の綾で生き残ったに過ぎないのだ。そうした流れの中で、南北朝合体から実に数百年下って、幕末期にそれでも尊王の真情篤いご奇特な方々が、多くの庶民からはすっかり忘れ去られていたミカドを、歴史の自然な流れに逆行する様に、かつての若狭の山奥のおほど王よろしく無理やり築地塀の中から引っ張り出して来て、しかつめらしく権威づけ、尊王だ攘夷だ勅許だなどと都合よく政治的に利用したに過ぎない。戦前、雲上人として半ば神格化されていた明治天皇など、禁門の変が勃発した折には、怖さのあまり押し入れの中でガタガタ震えて隠れていたいう逸話があるぐらいなのだから、白馬に跨る大元帥閣下とか現人神など全く想像もつかない話なのであった。

 

そもそも、御所の中でガタガタ震えていた人間を引っ張り出して来て無理やり神格化した様な、その継体朝を連想させる明治の成り立ちを考えれば、その始まりは、米ソ対立の中でスターリンに連れて来られ祭り上げられたキムイルソンの北鮮王朝と何ら変わりはない。その程度のものをありがたがって感涙にむせんでいた戦前戦中の日本人の無知ぶりも実に滑稽で悲しくはあったけれど、新年一般参賀とやらで未だ嬉々として小旗を振っている、戦後現代の一部日本人の意識構造もあまり変わっていない。と言うよりも、まさにお目出度いとしか言いようがない軽いレベルの情景である。あのデブデブしい金ジョンウン将軍様を、軍事パレードで表面上は恭しく敬う今の北朝鮮の人たちと行動様式は何ら変わっていない。それよりも、腹の中では間違い無く「あの珍竹林の子豚野郎」と冷静に指導者を軽蔑揶揄している分、朝鮮人の意識構造の方が、心の底から嬉しそうに笑顔を浮かべて能転気に構えている一部日本人よりは、少しはまともなのかもしれない。しかし、そうは言っても客観的に考えれば、天皇制も内実はともかく、制度として形式的には二千年近く存続して来たことは確かであり、過去にあっては、その折々に様々な形で政治や社会に大きな影響を及ぼしてきたことも否定しがたい事実である。それはそれで貴重な歴史的意味合いもあろう。けれど、今さら我が子にいろはの当たり前の理屈を並べて説教をするようで、心苦しく甚だ恐縮なのだけれど、象徴制などとどんなに民主的な外形を装ってみても、やはり君主制は君主制であり、社会学的常識で考えればカースト制や奴隷制と同じ紛れの無い身分制度なのだ。本来タブーの無いはずの民主制度の現代にあっては、その近代的装いと雰囲気とでどんな詭弁を弄そうとも、それは在ってはならない身分差別であり人間差別なのだ。しかも論理的合理的根拠があるのならばともかく、その時その場の単なる雰囲気に大きく影響されやすい、文字通り歴史認識や合理性の欠如した情緒的人間たちの意思に多く基づいているのだとしたら、実にやるせない話しである。

 

 

                      6 天皇教への移行のすすめ

さらに精緻に観察してみれば、その身分制度を積極的に支持する人たちに共有する卑屈な精神構造は、たとえばオウム真理教や他のいかがわしい宗教にのめりこんでいる信者たちに、「身を亡ぼすのがおちだから、そんな怪しい教えからは早く離れなさい」と世間がいくら忠告するにも関わらず、どこまでもその教祖様を一途に信じて疑わないのと同様、ことさら「この国は」とか「国柄が」と気取った表現を好んで使いがたる人たち、つまり、世の中で血筋や家柄や伝統とかが一番大切だと思い込んで生きている人たちに、いくらそこに内包する不合理性や不条理を説いてみても、合理性や条理的思考の全く欠如した人たちには馬耳東風とかいうやつで、その情緒的思考を改めさせることは先ず不可能と思って間違いはない。だから、それは個人の信教と信条の自由、「蓼食う虫も好き好き」とかいうやつで済ます事にしても、他方これから先の国民生活の中で、或る日突然、国民全ての義務だからなどと言われて、無理やりその皇室の私的行事なるものに、戦前と同じ様に国民全員が付き合わされなければならなくなったとしたら、日の丸掲揚や君が代斉唱だけならまだしも、オウム信者から「ありがたいお人なのだから、麻原尊師を敬いなさい」と言われるのと同じくらいの馬鹿馬鹿しさで、合理的思考しか出来ない偏見や迷信から冷めた人間には、それはもう堪ったレベルのものではない。戦前日本の学校や社会で強要された、つまり、無宗教の人間はもちろん、どんな異教徒や他宗徒そして朝鮮人や台湾人などの被植民地の人間にも、御真影なるものを有難がらさせ神社参拝や皇居遥拝を強要して信教の自由や思想の自由を段々と奪っていった様に、そして今も幾つかの中東国家で行われている、例えばイスラム教の宗教的価値観をすべての国民に押し付ける狂信的宗教政治国家と同様、現代の姿を変えたその非合理性と馬鹿馬鹿しさに、様々な形態で付き合わされかねない人たちの抱く危惧や心情も公平に考えてもらわねば迷惑この上ない話しなのだ。近代の極めて合理的立場に立つ人間にしてみれば、小旗を無邪気に振って喜べるような奇特な人たちとは全く相いれない精神的領域にあるのだから、君が代斉唱程度なら別に洒落で済ますからともかくとして、一般参賀や天皇巡行パレードでの旗振り役とは全く無縁のところで、突き止めるところ、彼らとは別べつに生活し行動したいと思うのは当然の事であろう。だから、いみじくも秋篠宮が「大嘗祭は皇室の私的行事」と語ったように、将来的には、皇室は一民間宗教法人とその祭主として独立して生き延びて行ってくれた方が全てに現実的であり、天皇制という身分制に何の矛盾も抵抗も感じず、むしろそれを喜んで支持する人たちが信者になって年会費を納めながら、天皇教に移行して皇室を未来永劫支えていってくれた方が、彼ら皇室も気兼ねなく、そして国民にも非常に分かりやすく合理的で、しかもすべてが丸く収まる方途であろう。その方が万世一系の天皇制にとっても、より永らえるためには一番賢明で合理的な策であることに間違いない。

ところでそのことは別としても、最初の元号問題に戻って考えてみれば、仮に将来、天皇の代替わりが数年単位で頻々になさざれるを得なくなった場合、つまり、かつて現人神などと奉られた時代があったとしても人間宣言をした以上、人間の寿命や健康問題などというものは誰にも予測出来ない緊急事態な訳だから、もしそれが現実的に起こった時、元号の変更行事を金と手間ひまをかけて、その都度今迄の様に仰々しく取り行うことが出来るのかという当たり前の疑念が生じる。そのような緊急事態が頻々に続いたら、日本人は一体どのように対応するのであろうか。いや実際、過去の歴史において、数年で代替わりした事例は枚挙にいとまがないのだから。実は意外とそのような単純な疑念から、天皇制の抱える矛盾が国民の間に分かりやすく露呈してくる可能性もある。それにしても条理に反することは、それが早いか遅いかの問題であって、つまるところ、いつか必ず終わりが来るものなのである。

最初に、はっきりと共有させなければならない事柄がある。つまり、二千年の歴史の天皇制というけれど、厳密に正しく言えば、以下に述べて行くように歴史事実と歴史認識からこれは明らかな誤謬である。つまり政治制度としての天皇制は、12世紀中頃の平氏の政治的擡頭とそれに続く源氏による鎌倉幕府の成立、そして後白河法王の院政政治の終焉をもって完全に崩壊しているのだ。その後思い出したように後鳥羽や後醍醐による妄動はあったけれど、結局、影も形も跡かたなく消えて無くなってしまっている。つまり明治に至る数百年の間、分かりやすく言えば、横綱免許の吉田司家と大相撲協会との関係の様に、武家による実質権力によって政治的象徴的に利用されたことはあっても、政治制度としての天皇制度など全く存在しておらず、存在していたのは様々な系統を組み合わせて辛くも維持されて来た、公家を中心にした私的な天皇家に過ぎなかったのだ。ましてや歴史の自然な流れに逆行する様な、不自然この上ない王政復古など破綻することは必然であった。

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天皇制に言及しない空虚な憲法論争

 天皇制のタブーから脱却出来ぬ未開の国の幼稚な日本人

世界連邦が成立しているのならいざ知らず、現実問題として国家が個々に存立している以上、それぞれの国家が独自に普通の軍隊を普通に保持しようとする権利は、過去に侵略戦争を起こそうとも起こさずとも、またどんな独裁国家も含めて、どの国家国民対しても平等に与えられた当たり前の権利であろう。戦後期の、一億総懺悔のような感傷的な理由からの戦力否定は別にして、一時の過ちだけで日本がその普通の権利の埒外にいなければならぬという合理的理由は全く見当たらない。

では、この当たり前の権利を巡っての正反対の主張が、つまり1項をどうする2項をどうするといった9錠を巡る殆んど噛みあうことのない一連の論争が、なぜこの日本にだけ存在するのであろうか?中国や北朝鮮はもちろのこと、同じ枢軸国であったドイツやイタリアにさえ、軍隊保持を巡っての、このような国を二分する論争が存在することなど聞いたことが無い。まして先の大戦でドイツは、ヒトラーとユダヤ人虐殺で日本以上に悪名を轟かせた国である。そう考えると、ドイツやイタリアにも無い余程特殊な歴史的背景や社会事情が日本にだけ存在する事になる。その間の特殊要因を考察する作業は歴史の流れを考えると一見煩雑そうにも思えるが、双方が繰り出す、敢えて主張するまでも無い単純な政治スローガンを除けてやると、答えは意外なほど簡単に見えて来る。しかし、多くの国民はその真実が顕わになると、国民各自がそのことへの自分の立場を明らかにしなければならぬため、あえてタブーにして、真実には出来るだけ触れないでおこうとしてきた。そういう事情だから、現実には互いの主張が、その言わずもがなの単純な政治スローガンに特化した応酬に終始せざるを得ず、この数十年来、全く変わり映えのしない論争を繰り返している。つまり、「平和が何よりも絶対に大切だ」「戦争は二度と御免だ」「平和憲法9条を守れ」とか、或いは逆に「自主憲法を持つのは独立国家として当然のことだ」「強い軍隊を持たなければ他国に舐められる」「愛国心と日本人の誇りを取り戻せ」などといった、今さら言う必要のない情緒的で実に単純な政治スローガンだけで、言い換えれば原理原則に拘り続ける単純左翼と相変わらず短絡的な単細胞右翼とが、自分の価値観と世界観だけを頼りに、それを相手に押しつけようと結論の出ない論争をせっせと続けている。

確かにこのままでは、出口の全く見えない憲法論争に終わる可能性が高い。しかし本当はそんな事よりも、国論を二分するような大きな隔たりと普通の軍隊を持つことへのためらいを、少なからぬ日本人に抱かせた本当の原因が、つまり余程特殊な要因が何であるのかを解明することの方が、何よりも重要であることは言うまでもない。そして上述したように、そんな事はやる気になれば、いつでも出来る非常に簡単なことでもある。はっきりと単刀直入に言ってしまえば、それは徹底的な批判を受けず反省もされずにもやもやとした日本的曖昧さの中で、日本人がいつの間にか存続させてしまった天皇制の問題である。いや、厳密には天皇制そのものと言うよりも、天皇制に寄生してきた自意識過剰なまでに自らをことさら特殊視して誇大化しようとした、日本人独特の独善的価値観とでも言えばいいのだろうか。日本人があえて知らないふりをし、勝手にタブー視してずっと覆い隠してきた事でもある。つまり、過去二千年の天皇制の歴史の中で、最も猖獗を極めたに違いない戦前戦中の偏狭で復古的天皇制の本質を精査して、当時の政治指導者達はもちろんの事、そのお先棒を担いだ一般社会の末端に至る天皇制軍国主義の信奉者や追随者どもの責任を厳しく追及し、同時に、幕末に猛威をふるった尊王攘夷思想や明治維新の本質も含めて、その後の歪んだ国家主義者や軍国主義者達、それに天皇の赤子達を次々に生み出していった要因を明らかにし、ドイツのナチズム批判のように、天皇制軍国主義がもたらした罪科も実はナチズム犯罪と根源は同じであると、徹底的に暴き出し批判出来なかった事に尽きる。有体にもっと分かりやすく言えば、天皇制軍国主義の権化であるようなノモンハンの辻正信やインパールの牟田口廉也的な恥知らずで無責任な右翼軍人たちや、軍国主義権力のお先棒を担いでいた無知で単純な庶民たちも含めて、旧体制の殆んどが偏狭な思想を残したまま、あらゆる形で、体よく何ら罰せられず生き残ってしまったからであると。

たとえ象徴性であれ天皇制を残してしまったことが、中途半端に終わった戦後改革の象徴であり、憲法解釈での大きな齟齬を国民の間に生み出した事に多くの人はまだ気づいていない。いやタブーが怖くて気づいていないふりをしているだけなのかもしれない。白馬にまたがった大元帥閣下が、ある日突然、好々爺然とした植物学者に変身して全国行脚を始めたからと言って、身分的天皇制の本質が変わったわけでない。あの時、天皇制の廃絶(もしくは宗教法人化)にまで至ったならば、今の、文字通り反動めいた保守勢力のうごめきはもっと小さなものになっていたであろうし、だいいち彼らの存立の基盤さえ危うくなっていたに違いない。それどころか分かりやすい話し、間接的な結果として、中国の尖閣に対するちょっかい出しや、韓国による慰安婦での厭らしい日本批判の基となる動機付けも、もっともっと和らいだものになっていたに違いない。自分に厳しい人間に、他人はそうやすやすと批判など出来ぬのが、人の世の習いであり人間のたちなのである。戦後、日本が自らに客観的で毅然とした厳しい態度をとっている姿を見せていればこそ、他国もそうやすやすとつまらぬ批判など出来ようはずはなかった。なのに現実は普通の軍隊を普通に持つことにさえ、一部外国からつまらぬケチをつけられている。

つまり、日本自体が日本批判の種をまいてきたのだ。敗戦直後あれだけ声高に叫ばれていた大戦での戦争責任いや敗戦責任の所在さえもが、いつの間にか何処にもなかったかのように消え去り、それどころか、いや実は誰も悪く無かっただの、世間の当たり前の常識で考えれば、真っ先に責任を負わなければならなかった筈の天皇を含めて、本当は一億国民皆被害者であったのだと、まるで手品のように、実に巧妙姑息に世間の空気がすり替えられていってしまった。さらに悪いことには、あの戦争は侵略でも何でもなく、逆に植民地での皇民化教育も含めて、インフラ整備も随分としてやったりしてアジアの近代化に大いに貢献し、現地の人たちからは文句をつけられるどころか、本当は陰で感謝さえされている話であり、よくよく考えてみれば、結果的にあれは欧米帝国主義からの解放戦争であったなどと都合よく真顔で言いだす、つまり他国の人間が同じ様に持つ愛国心と自尊心が想像出来ずに、他人の気持ちを自分流に勝手に忖度する手合いが見事なまでに復活してきてしまっていたのだ。結局、何の反省もなく誰も責任を取らないまま、都合よく日本中に無責任体制が見事なまでに出来あがっていた。国内外に不信感が生じるのは当たり前のことである。だから、自衛隊を当たり前の軍隊にしたいなどと実に当たり前の主張をしても、国内外から反発を受け警戒されるのは当然ではないか。本当にそうしたければ、戦前戦中の負の部分は全否定しなければならぬ筈なのに、教育勅語にも良いところは一杯あったなどと妄言を吐く輩も出て来る始末である。誰が彼らの主張する憲法スローガンを信用など出来ようか。ドイツの様に、ヒトラーを全否定し未だナチズム批判を徹底化している国とは大違いなのだ。ヒトラーにも良いところはあった、ナチズムにも良いところは一杯あったなどとドイツ人は絶対に言わない。ましてや最高政治権力の地位にある人間に至っては。

そもそも軍国主義と結びついた天皇制そのものが、日本をあわや1945年8月の亡国の淵に導いておきながら、そこの肝心なことは棚に上げて、つまり日本消滅ということも十分考えられた事実をうやむやにする為なのか、或いは天皇制至上主義の特定の勢力が自らの利益を保全する為なのかは分からぬが、逆に天皇制を廃止したら日本は共産勢力に支配されただの、制御不能の内乱状態の国になっていただのと、まさに予測不能で本末転倒と言っていい屁理屈を考え出して天皇制を存続させてしまったのだ。だいいち、日本人を幸せ一杯に守っていてくれるそんな素晴らしい制度で有ったならば、原爆まで落とされ北方領土まで奪われ、挙句何百万人の国民が男女子どもを問わず殺されるという、最初から日本がそんな奈落の底に突き落とされる必要など全くなかったではないか。歴史上、それこそ悪逆非道な天皇も個人的には少なからず存在したけれど、政治制度としての天皇制が、これほど猛威を奮い人民を苦しめた時代は、明治維新以降敗戦に至るまでの80年間を除いては恐らくなかったに違いない。南朝の重鎮であった北畠親房でさえ、今に生きていたならば「神皇正統記」に必ずやそう書き記して嘆いたことであろう。天皇制が政治に一番悪用された、本当はそういう時代であったのだ。そして、日本人は決して情緒的ではなく、その歴史的事実を全て客観的に理解してから天皇制を語るべきなのである。

それはともかく、靖国参拝同様、天皇制の犯した過ちに目をつぶったことは諸外国によるつまらぬ日本批判の口実を与えることになってしまった。だからこそ逆に、天皇制廃絶に至っていれば領土問題などにおける当たり前の権利も堂々と主張でき、他国の不正行為に対しても何の後ろめたさも感じずに厳しく対処できたのである。当然、国内においても、削るとか削らぬとかの9条を巡る瑣末で無用の論争も、当たり前に普通の軍隊を持つことへの異論も不信感も発生しなかったに違いない。そのようにして、単に諸外国につまらぬ口実を与え、国内に対立と不信感だけを蔓延させてしまっていた。とっくに原因ははっきりしているのに、国内外の政治状況や社会状況の変化に目を奪われ、つまらぬタブーを含んだ社会常識や、天皇制護持が必須のメディアと復古勢力などに巧みに惑わされて、そのことに気づかぬ、いや無頓着な人たちが、肝心の天皇制論議を抜きにして、お互いに何故正しいのかと現在の自分達の主張にさえ自信を持てていない癖に、こんなつまらぬ憲法論議などにうつつを抜かしている。それよりもあの時、日本を惨めな敗戦に導いた天皇制軍国主義者どもと、それを生み出した偏狭な尊王思想や天皇制国家主義思想を、日本人自らが徹底的に究明して糾弾し、いや排除してさえいれば、今の日本の政治的分断状況は大いに変わっていたであろうことは、何度でも言うように間違いないのだ。

NHKの大河ドラマなどに顕著な如く、未だ薩長史観の流れを受け継いだ反動的な勢力が、大陸での植民地戦争ばかりでなく、アメリカの挑発にまんまと乗せられて勝ち目のない戦いに突入し、挙句、徳川以来の領土をも喪失するという大失態を演じながら、恥知らずにも敗戦責任も全く取らず、相も変わらず明治維新から無条件降伏までの歴史を歪曲し、ことさらやたら美化して、その延長としての戦前天皇制軍国主義の罪科をうやむやにしようとしている。まさに、責任の一端を担うべき庶民も含めた、少なからぬ無責任な保守的復古勢力がおめおめと生き残ってしまっているからである。そういった社会状況から、今では無知な国民への遠慮なのか、選挙結果を気にしてからなのか、日本共産党でさえ戦後天皇制に対するその態度を曖昧にしている。当時、確かにA級戦犯などが部分的に旧体制の象徴として裁かれはしたけれど、朝鮮戦争の勃発に象徴される世界の冷戦構造の中で、はっきりした結論を出さぬまま、中途半端な形で極東軍事裁判は終わってしまった。その時、全ての軍国主義者を裁いて一掃してくれるものだと進駐軍に期待を抱いていた多くの日本人は、当然肩すかしを食い割り切れぬ気持ちを抱えて、自らは何もなし得ぬまま、それを引きずる様な形でずるずると今日まで来てしまったのだ。

そういった状況を当然のこととして肯定するのか、或いは否定するかで、いわゆる平和憲法と言われる9条に対する見解も全く異なってくる。だから一方で、その極端な反動で、そういう意味では決して無理からぬことではあるけれど、つまり戦前戦中体制の温存と、いつあってもおかしくは無い反動勢力の復活に対する極端な不信感と警戒感から軍国主義・国家主義に苦しめられ、軍隊で散々殴られいじめられて自国に誇りの持てなくなっていた多くの国民の、自国の軍隊つまり自衛隊に対するあからさまな軽蔑的風潮を社会全体に蔓延させてしまった。そういう意味では、戦後日本の全ての矛盾は無責任な反動勢力を徹底的に叩きつぶせなかった事から派生したものであり、戦後の悲劇はそこから始まったのである。今ではすっかり忘れ去られてしまっているけれど、あの当時、これは日本人の少なからぬ常識だったのではなかろうか。

自前の軍隊を持つという、当たり前の権利さえも自ら拒否したということは、馬鹿馬鹿しくも現人神を拝まされつつ、反戦非戦を含んだ一切の自由な言論が全て弾圧され、あまつさえ侵略戦争の先兵にさせられ、挙句国土を焼けつくされて惨めな敗戦を喫した、当時の日本国民の正直な気持ちの表れであった事は間違いない。彼らが文字通りの完全非武装を含めて徹底的かつ極端な平和主義を希求したことは、先の状況を考えれば、無理からぬ純粋で紛う事の無い事実であったと思う。現在、実に巧妙に曖昧にされているけれど、ナチズム同様それほど天皇制軍国主義は猛威を奮っていたのである。もちろん北朝鮮やシリアを含めて、どんな独裁国家においても、その体制に痛痒を感じずにすむ幸福な人たちが少なからずいるのは事実である。当時の日本でも、少なからぬ利益を享受していたからなのか、それとも単なるおめでたい無知さ加減からなのかはともかく、何ら痛痒を感じずに幸せいっぱいに毎日を過ごしていた人たちも結構いたであろう。いや、それは確かな事である。しかしそれに反して、本来まともな少なからぬ日本人は正直もうこりごりであったろうし、もとの時代に二度と戻りたくはないと感じていた事も事実であったろう。ドイツの様にヒトラーを完全否定して、ナチズム批判が今も徹底的になされていればともかく、教育勅語にも良いところはあったなどと、過去の経緯を忘れたかのように、いや単なる郷愁と無知から来ることなのかは知らないが、能転気に懐かしげに語る世襲宰相殿が出て来るこの国のお粗末な政治的現状を見れば、おいそれと改憲などに賛成するわけにはいかない。このようないきさつを知らない単純な民族主義者や若い世代が出てくれば、同じように偏狭な民族主義の混じった、中国や韓国の挑発的発言や行為に素直いやストレートに反応して、その戦中戦後の歴史を理解せぬままそれを飛び越えて、歴史の習いで同じ過ちが繰り返されることはもう必定である。

皮肉めいた言い方になるけれど、憲法問題に象徴される国内の対立状況も、ヤンキーに石つぶてひとつ投げるでなし、日本人の矜持を捨て去って進駐軍にあれほどペコペコしていたそういった輩に限って、喉元過ぎれば熱さ忘れるの如く、進駐軍がいなくなった途端に日本人の誇りとか自前の憲法などといきなり叫び出すような、そんな日本社会のあらゆる層に死なずに残っていた卑怯でさもしい日本人が持つ、自意識過剰なまでの民族主義的で陰湿な気質が何の反省もなく、そのままいつ再発してもおかしくはない病原菌として残されてしまっていたからなのであろう。そういう事情を考慮して、それでも改憲がどうしても必要と言うのであれば、その時は9条だけでなく、天皇制の存否や、それを維持する為の少なからぬ宮内庁予算、そして天皇制の宗教法人化といったことも含めた改憲論争が当然必要になってくるのが物の道理である。改憲論者はそのことの重大さをはたして認識しているのであろうか。いや護憲論者も、今の天皇制を手つかずのままにしておいて、それは象徴天皇制でもあるし、それに天皇ご夫妻もお人柄がいい人たちだからと言って微笑ましげに見過ごせる「空気の様」な存在だと思っているのであろうか。ただでさえ水と油の如き9条論争なのに、このことを棚上げにした右も左も奥歯に物を挟んだままの、欺瞞的かつ不自然な暗黙の了解の上に立っての改憲論議など、ますます茶番に過ぎなくなっていく。いつまた偏狭な国家主義が頭をもたげて、あの忌まわしい天皇制と結びつくかは分からない。改憲を語るのであれば、退位問題に目を逸らされてお茶を濁すだけでなく、火種を残したままのこの象徴天皇制の存廃も含めた議論でなければ本当は何の意味もない。はたして、そこまで出来るのであろうか。

結論から言えば、我々日本人が普通の軍隊を持ちたくとも、その足を引っ張り持てないようにしているのは、まさに「戦前日本にも良いところは一杯あった、戦前天皇制価値観にも素晴らしいところは一杯あった」などと言って、国内外につまらぬ疑心を振りまき、自分の存在に疑問も痛痒も感じずにいられる勢力の存在に他ならない。つまり、なし崩し的に過去の敗戦責任が曖昧にされて、旧体制に対する徹底的な批判とそれへの決別がハッキリ出来ない状況が続く限り、いやそれどころか教育勅語を暗唱する年端の行かない子どもたちの姿に感激の涙を見せたり、教育勅語にも良いところは有ったなどと能転気にしゃべることの出来る鈍感な輩に、自衛隊を普通の軍隊にしたいから憲法も変えたいなどと言われても、それに対してストレートで真っ当な憲法論議など到底出来ようはずもなく、まして賛成など出来ようはずもなく、現在の9条論議をこのようにただ皮肉交じりに揶揄することが精一杯なだけなのである。

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ことさらに評価され利用された日本人 勝海舟

 

                             行燈省益

 

まあそうは言っても、かなりの人物であったことに間違いは無いのだろう。日清戦争への反戦メッセージや、同じアジア人への連帯意識、そして依然として植民地政策をやめようとしない欧米列強と、その政策にひたすら追随するかのような我が国への辛辣な批判など、特に彼の晩年の発言は、朝鮮自立や中国辛亥革命を支持した宮崎滔天らに通ずる、同時代人には珍しい良質のアジア主義者のそれであり、そして彼自身、反戦主義では無かったにしても、根っからの非戦主義者であった事に間違いはあるまい。その点は確かに評価しなければならない。しかし世上の彼の、それも幕末期におけるあまりの、それも竜馬とセットになっての評判ぶりには、少しばかり首を傾げざるを得ない点も多い。NHKなどの大河ドラマはもちろん、幕末ものを描いた映画やドラマを観ていて今ひとつ腑に落ちないのは、何故か勝海舟以外、碌な人物が、いやまともな人材が幕府方にはいなかったかのように描かれている点である。ことさらに何故か、彼ひとりだけが幕府方の中で持ち上げられ、そして際立って描かれているのである。それも全てに客観的で公平で時代を先読みし、反幕府勢力からも尊敬され、これ以上の好人物はいないと言うほどにである。朝廷に、いや薩長方に敵対した徳川方の中には不敬で頑迷固陋な輩しかいなかったけれど、その中にあって彼ひとり尊王の心篤く開明的であったという、そのこと自体ひどく矛盾しているけれど、明治以来、原爆投下や領土の喪失と言った惨めな敗戦を喫しても、まだ懲りずに肯定的に描かれてきた薩長史観の流れそのものである。彼の責任ではないのであろうが、彼以上に合理的で開明的であった筈の徳川方の人物が正当に評価されず、他人の業績も含めて、有体に言えば彼だけが手柄をひとり占めにした感が強い。彼が意図したことで無いにしても、いや「氷川清話」などはかなり手柄話めいていて、彼自身ひどく自慢げに語る部分も多い。

 

高利貸で財をなした越後出身の按摩の曾祖父が、その有り余る金力で手に入れた御家人株身分という因果から、ライバルの小栗上野介忠順などの三河以来の譜代筋と違って、DNA的に徳川に対する忠義立てなどそれほど感じていなかったのであろうが、色々と理屈を付けていとも簡単に主家筋を売ってしまうところなど、まあよく言えば先見的で合理的、悪く言えばドライに過ぎると言うところであろうか。後年、窮乏した旗本や御家人たちの面倒をよく見たなどと言われるけれど、さすがに優遇され恵まれた自らの立場と零落した彼ら幕臣たちの惨めな後ろ姿を見比べて、戦わずして薩長の軍門に降った事への疾しさが心に甦ったからであろう。それに父子鷹だの江戸の町を戦火から救っただのとやたら美談めいたイメージを持って語られることも多いが、随分と創られた部分が多いし、単に薩長そして新政府にとって扱いやすく都合のよい俄か侍であったに過ぎない。元幕臣の福沢諭吉が「痩我慢の説」で彼を罵倒した気持ちも、全部では無いがある程度は理解できる。

 

もしあの時に日本人同士が争っていたならば、その間隙をぬって欧米列強にまんまと国を奪われたような事を、今でも分かった様に尤もらしく言う輩がいるけれど、ちょっとだけ理解力と洞察力に欠け、しかも短絡的に過ぎる。当時のあまりに纏まりに欠けた清国や朝鮮とは全く国情が、つまり尊王だ勅許だ攘夷だなどとやたら無理難題を吹っ掛けては足を引っ張る、いわゆる尊王攘夷主義者という現実を全く理解出来ていない単純でやっかいな輩のせいでかなりガタついてはいたけれど、それでも幕府の体制はそれなりに機能していてお国柄も違っていたのだから、彼ら列強だってそう簡単に日本に手など出せなかったのである。何よりも生麦事件だヒューストン事件だと、夷人と見ればやたら斬りつけたがる数十万の常備兵が刀を腰に差して全国に闊歩していたのだから。しかも当時の幕閣はそれなりに世界情勢に通じ、少なくとも観念的な尊王主義者や攘夷主義者よりもはるかにバランス感覚があり、諸外国にやられっぱなしではなかったのである。今でも奈良本辰也などの高名な歴史学者達によって、「ハリスに屈して条約に調印」などと、ただ単に幕府の努力や功績を貶めるだけが目的の相変わらずの薩長史観や、それと密接した薩長自慢などの偏狭なローカリズムに基づく、しかもピントのずれた、いかにも安っぽく書かれた歴史書や教科書などがちらほら散見されるけれど、事実はそれと全く異なる。それは幕末の外交交渉にあたっての、幕府官僚たちの手強さ・したたかさや情報収集力の確かさに手を焼いた、諸外国の公式記録や当事者達の日記からもよく分かる。たとえば何よりも,クリミア戦争でのロシアの苦しい情況を逆手にとって、蝦夷全土だけでなく北方四島まで日本領土としてロシアに認めさせ、果ては樺太までロシアとの雑居地にしているのだ。その時、もし勝が外交当事者だったら、どんな立場の相手に対してもやたら相手を思いやって理解を示す彼の事だから、「プチャーチンさんもハリスさんも国を背負ってさぞかし大変でしょう」などと、もっともらしく簡単に譲歩を重ねたかもしれない。四島はもちろんの事、北海道の北半分だって、「いくさになるよりはまだましだ」などと言ってロシアに持っていかれた可能性だってある。巷間、西郷との交渉に臨んでいざ決裂となったら、ナポレオン戦争時のモスクワを想定して、町民を全て避難させて置いてから、江戸を火の海にしてでも一戦を交える覚悟だったなどと言う勇ましい話もあるけれど、後からだったら幾らでも語れるし盛ることだって出来る。そんな風な、「あの時、その気になればいつでも薩長を」などと巷間伝わる、あまりに都合の良い「あとから話」がどうも彼には多すぎる。もし本当にそんな目論見が有ったのなら、ハッタリついでにもっと西郷に迫るべきであったろう。まあ冷静に考えてみても、戊辰戦争時、卑劣な秋田の裏切りがあったにも関わらず、会津や長岡や庄内藩などの家来筋が城を枕にあれだけ大健闘したのだから、庄内藩に至っては連戦連勝だったのだから、旗本八万騎一致団結して江戸城に立て篭もり一戦を交えていたならば、勝ったとは言えぬまでも講和に持ち込んで、もちろん徳川政権の復活は無かったにしても、雄藩連合による、天皇制よりははるかに民主的な共和制の誕生によって、その後の薩長による偏狭な天皇制絶対主義国家の成立は防げたかもしれない。少なくとも、歴史の自然な流れに逆行する様な王政復古だけは絶対に阻止し得たかもしれない。

因みに、小泉純一郎が俄仕込みの知識で散々吹聴して利用した「米百俵話」など、不都合な東北戊辰戦争の真実内情を覆い隠してうやむやにし、東北武士団の筋の通った抵抗を歪曲矮小化して、明治維新の成立を綺麗事に済ますための情緒的国民の受けを狙った極めて意図的な政治的美談に過ぎない。そしてあの時、ラストサムライではないけれど東北武士団が最後の意地を見せてくれていなかったならば、諸外国からきっと、その外交的外づらはともかくとして腹の内では、いち早く敵前逃亡を決めた彦根や淀や紀伊などの上方ぜえろくザムライの様に、「サムレーなどと言っても大した事はねえ。口先だけ達者な腰ぬけ野郎揃いめ、恩義も忠義も有ったもんじゃねえ」と散々揶揄され軽蔑されたに違いない。大体が、田吾作権平と言ってもいいような出自の今の多くの日本人が、オリンピックやワールドカップで自分からやたら殊更に、サムライジャパンなどとナルシシズムの極致に浸ることが出来るのも、これ全て彼ら東北武士団や函館五稜郭に立て籠って戦った一部幕臣達のお陰なのである。そもそも、江戸の町と人命を兵火から救ったなどとやたら恩着せがましく美談めかして大袈裟に言われるけれど、天皇制軍国主義によって後年もたらされた東京大空襲を含む日本中の人的物的空襲被害を考えれば、そして何よりも広島長崎への原爆投下の悲劇惨劇を思えば、あの時、薩長と一戦を交えていてくれた方がよっぽど逆に、その後の日本人いや日本国にとってどんなに幸せな事であったか。大体が、今の東京には震災と、そして何よりもあの東京大空襲に焼き尽くされて、江戸の面影や風情など殆ど何も残っていないのだから。それどころか、1855年幕府が苦心惨憺してロシアに承認させた北方領土まで、その後の天皇制軍国主義国家はそれまでの大言壮語ぶりをよそに、1945年、おめおめと為すすべもなくソ連ロシアに掠め取られているのだ。

 

それは兎も角、彼、学問好きはある程度認めるにしても成績的にはあまり優秀では無かったようだ。しかも、海舟などとひどく気取った号を名乗ったにも拘わらず船酔いも相当ひどかったらしく、咸臨丸の艦長であった事実も無く、とても海防だの海軍だのとのイメージとは不釣り合いであったのだ。ただ私塾の海軍塾を作ったり、幕府に神戸海軍操練所を開設させて、徳川や藩の垣根を越えた人材を入所させて訓練させていたのは事実だけれど、それさえも結果的に反幕府勢力に体よく利用されたに過ぎない。よく幕府のことだけを考えていたのではなく、日本国のことを考えていたなどとかっこよく言われるけれど、要するに八方美人で敵にも味方にも上手く取り入る世渡り上手の人たらしで、つまり商売上手の按摩の曾じいさんの血をひいて単に要領が良かったと言うところか。

そもそも、彼を取りたててくれた阿部正弘や大久保一翁はもちろん、ペリー来航以来の幕政をリードして積極的な開国通商策を主張し、かの井伊直弼さへもが辟易とさせられた気鋭の老中松平忠固(彼は密航を企てて死罪になりかけた吉田寅次郎の命を阿部正弘と共に救って国元蟄居だけで穏便に済ましている。皮肉ではあるけれど後年の松下村塾など彼無くしては存在しなかったのである)、幕末の外交交渉を担ってその能力の高さでペリーやハリスやプチャーチンなどを感心させた岩瀬忠震や井上清直そして川路聖謨などの優秀な幕僚達、それに横須賀造船所設立など近代日本の生みの親小栗忠順と、勝を上回るそれこそきら星の如き幕府の人材には事欠かなかったのである。さらに身分制の足かせがあったとは言え、「足し高の制」などによって登用され活躍した小身旗本や御家人はもちろんの事、それに軽輩身分などからもかなりの数に上ったのだ。そうそう松平忠固の家臣で英式兵法家の、日本で初めて人民平等の普通選挙と議会の開設を説いて挙句、敬天愛人が聞いて呆れる希代の陰謀家であり男色家でもあった西郷の差し向けた、中村半次郎などの薩摩の大馬鹿テロリストの凶刃に命を落とした赤松小三郎などは本当に惜しい人材であった。勝と違って彼らが歴史の闇に葬り去られていったのは、実に簡単明瞭、触れられたくない明治維新史の不都合な部分が炙り出されかねなかったからなのである。勝の本意では無かったにしても、天皇制度をないがしろにして来た徳川政権は、何もかも間違っていたという後付けこじつけの前提の上に成り立つ、つまり明治新政府成立の正当性を強調する為の中和剤に利用されたに過ぎない。まあ、勝ひとりをあまり批判しても仕方が無いことではあるけれど。ついでながら後年、それは皮肉なことではあるけれど、近代ニッポンの夜明けの為に倒幕に邁進したはずの薩長諸藩の出身者よりも、身分的封建制度の恩恵を一番多く受けていた筈の幕臣や反薩長的譜代諸藩出身者の方に、より進歩的で民主的な人材が多く輩出されたと言う事実は何かを暗示していて実に興味深い。そこには当時蔓延した偏狭な尊王主義から、如何に自由度を保つことが出来たかと言う分かりやすい構図が描けるのである。

 

ところで社会の近代化や教育水準の高さ、それに市民社会の一定程度の成熟ぶり等、明治以来の日本の歩みを全否定する事は出来ない。しかし、そんな事は別に明治の元勲や天皇がいなくとも、明治が始まるまでの長い歴史の中での日本人自身の勤勉実直な営為を見てみれば、どんな政治体制になっていても当然成立していた事は間違いない。ましてや、今ある戦後の日本の繁栄は皮肉な言い方になるけれど、これ全てマッカーサーと学校給食、つまり悔しいけれどアメリカのお蔭であると言っても過言ではない。むしろ維新以降創りだされた、否定されるべき戦前の忌まわしい天皇制価値観は、掠め取った領土はおろか、北方領土という本来の領土の一部喪失と言う有史以来の大失態も演じて、すべて8月15日の敗戦によってご破算になったのだ。維新以来の悪しき日本の復活を企てようと、箪笥の奥に虫食いだらけになって仕舞ってあったものを無理やり引っ張り出して来て、教育勅語にもいいところはあったなどと、ことさらに主張するどこかの世襲政治家の姿は見苦しい。情けない話ではあるけれど、サムライとは名ばかりの変節漢に他ならなかった田吾作軍人ども、つまり誰ひとり、ヤンキー兵の無法ぶりに抗議して腹を切るでなし石つぶてを投げつけるでなし、それまで国民に鬼畜米英を散々煽って大言壮語していた軍人右翼どもに限って、進駐軍に見苦しいまでに媚びへつらい何をやられても文句ひとつ言い返さなかった腰ぬけ野郎揃いだったのである。そういう時代状況をしっかりと見つめ直し、闇に埋もれ正邪逆転した事実も掘り起こして、今こそ我々日本人は自国の正しい歴史を冷静に考え直す時期に来ているのだ。

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トランプ現象から思う  普通選挙の幻想と陥穽

選挙の結果は何びとも犯すことの出来ぬ最高の民意であり、民意とあらば、それがどのようなものであっても誰もが従わねばならぬ絶対的正義であるという素直な思い込みと、そして人類に幸福しかもたらさぬ天与の権利であるという如何にももっともらしい普通選挙権への幻想が、かつてはナチスドイツや天皇制軍国主義国家の台頭を許して、その行動を正当化し、その結果、多くの人間が筆舌に尽くし難い辛酸を舐めたのである。それは例えば、納税額の多寡による制限選挙であっても、まだその方がましであったのではないかと思わせるほどの不幸を人類にもたらしたのである。にも拘わらず、懲りもせず、単純進歩人や呑気な人権至上主義者に支持されて、それは今再び新たな狂気を生み出そうとしている。
かつて、その悲惨な結果に懲りて、平等な(完全ではなかったけれど)普通選挙制度であっても、それは偏狭な民族主義と露骨な排他主義を明確に露呈させるだけで、必ずしもそれは人類に普遍的な平和と安全と幸福をもたらすものでないという教訓を得たが、歳月の流れはそんな単純な教訓さえも風化させて、民衆は正義しか選択しないという同じ様な愚かな幻想を再び撒き散らしてきた.
つまり二度の世界大戦を経て、その教訓から、いっとき一部の合理的な人たちの間に、民意がいつかまた同じ様な狂気を生み出し暴走を繰り返すのではないかという疑念を生じさせたけれど、大多数の世間の人たちから、逆にそれは民衆を小馬鹿にした知識人の甚だしい思い上がりであると言う、いつもの知性批判の常套句で批難されてうやむやになり、結局、普通選挙制度に対する検証と根源的な論争はなされずじまいに終わっていた。ところが、単なる嫌みや皮にくれ、或いは被害妄想と誇大妄想とでしか思われていなかった普通選挙制度への懸念と疑惑が、皮肉なことに、今度は自由と人権の国アメリカでの、エキセントリックな人物の出現によって現実的脅威になろうとし、世界中をあたふたとさせている。

「大衆は女々しく愚かである。彼らを操るには、ただ憎悪をかき立てるだけでよい」と述べて、雰囲気に流されやすい大衆と、一見民主的でもっともらしい普通選挙制度とを徹底的に利用して成り上がったのは彼のヒトラーであった。しかし、それは時代が特定された昔話ではなく、いつの時代にも、それを地で行くような悪質な扇動者・デマゴーグは存在する。今、独裁者ヒトラーほどには陰湿で狡猾で計算ずくでは無いにしても、そしてその主張が極めて幼稚で演説が場当たり的であったとしても、さらには、今はまだ彼の独裁者の極めて亜流の様な存在であっても、大衆の熱狂ぶりから察するに、その登場は将来の真正な独裁者ヒトラーの復活をさえ予見させる。インテリの本当は思っていても心の奥底を本音で語りたがらない弱みを逆手に取って、大衆の心の奥底に潜んだ黒く淀んだ本音を巧みに代弁する、つまり、合法な移民と穏健で誠実なイスラム教徒をさえ、そして同盟国であった筈の日本や韓国をさえ敵に見立てて,衆愚どもの心の底に必然的に潜む、何となく曖昧な憎悪を巧みにかき立てることに長けたひとりの白人が自由の国に現れたのである。
社会には今も同じ様に、相変わらず物事を情緒的にしか捉えられない大衆にはびこる、知性を嫌悪しがちな反知性的雰囲気が満ちている。今後、民衆の心の奥底に潜む情緒的怒りと憎悪の矛先を、単純明瞭に示してくれるトランプの様な小ヒトラーが益々増えて来ることは間違いないであろうし、そのレベルに相応しい衆愚の数も加速度的に益々すそ野を広げて行くに違いない。どんな種類の人間にも、平等に与えられるという基本的人権思想に裏打ちされた普通選挙権の拡大は、結果的に大衆に媚び且つ扇動する怪物たちを次々に生み出していく。これはまさに百年以上この方、マスコミメディアの責任に他ならない。アメリカや日本のみならず、彼ら大衆を基本的人権を有した社会の主人公などと煽てあげながら、啓蒙も出来ず様々な手段で軽薄化しておきながら、それに矛盾するかのように、一方で民意であるはずのトランプ現象を取りあえずは批判して見せるマスコミメディアの欺瞞的かつマッチポンプ的体質を明らかにしない限り、テレビやラジオや新聞を巧妙に利用して、作られたイメージに簡単に左右されがちな衆愚を操って、選挙に合法的に、しかも、いとも簡単に当選して見せる最近のポピュリスト達の登場はその典型的かつ具体的な例であろう。

その魂胆はは見えみえなのだけれども、洞察力と直観力の欠如からそれに気付きもせず、取りあえずは風変わりなパフォーマンスと自己顕示欲の強い人物を面白がってみせる、こうした普通の市民の当たり前の熱狂、いや、まさに普通の市民の手のつけられぬ政治的熱狂は、基本的人権と言う根拠曖昧な理由による野放図なまでの普通選挙権の益々の拡大によって、このような大衆ヒステリーに陥りやすい民衆と、それに相応しい扇動者を次々と政治の表舞台に引っ張り出してくる。

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芥川賞に思う  作家の実相と作品

今、貸出しの延長を繰り返しながらも、近所の図書館から小林秀雄全集を借り出してきて、久しぶりに彼の評論作品に時間の許す限り目を通している。学生時代、生き方や思想は別にしても自分もそのように書けたならばと、加藤周一の評論作品と共に彼の怜悧な表現と芸術の様な文体には随分と憧れたものであった。あらためて、今も色褪せぬ日本の近代理知性を代表するかのような小林の教養、特にランボーを初めとする専門のフランス文学に対する造詣の深さ、そしてその研ぎ澄まされ透徹した文章表現に頗る感心している次第などと言ったら、それは当然のことだけれど、中也との女性問題も含めて立場的に彼を毛嫌いし、いや思想的に聊かでも彼に否定的な感情を抱いている連中からは、いくら何でもそれは褒め過ぎであろうと反発を受けるかもしれない。確かに若き頃、彼の作品に対する思い込みは我ながら相当強かったのかもしれない。しかしこの数十年、進歩保守を問わず、彼に匹敵する、或いは少しは感心するほどの客観的知性にはあまり出会っていない。まさに、日本の保守派を代表する良質な知識人であったことには間違いはあるまい。彼に対してどこかあらさがしをしようとしても、それは自分には追いつけない彼の才能に対するコンプレックスの裏返しか、せいぜいがプロレタリアート的ではないと言う、プロレタリア文芸全盛時の社会主義的価値観に基ずく単純な理由と、そこから派生した戦争責任論だけであり、さらには傍観者的で無責任に過ぎるという、いつの時代のどの評論家にも浴びせられるありきたりの批判だけであって、その時々における年齢的未熟さから来る、少々背伸びをしているのではと感じさせる若年期の大人びてませた表現も、若くして才能を発揮した人間であれば、誰もが背負う宿命的なものであってどうにも致し方ないことであろう。それよりも、逆にあらためて、この年になっても到底追いつけない、自分の教養と知識不足、そして何よりも文章表現の拙劣さを痛感している。

そんな中、文豪トルストイの恐妻からの逃避行の挙句、みすぼらしく客死したエピソードに取材した評論、特に正宗白鳥とのちょっとした論争を巻き起こした、「作家の顔」と「思想と実生活」は、ひょっとしたらランボーに通じるのかもしれない、如何にも彼のどこか冷めた評論スタイルを代表しているかのようで興味深く面白い。人類解放の、そして博愛の権化であるかのように世間で思われていたこの大作家の、たかが女房のヒステリーに日夜悩まされ続けた挙句、家出して野垂れ死にした現実と、その立派すぎる思想のあまりの乖離ぶりに対して、いつの時代にも変わらず存在する、底意地の悪さとやたら皮肉に満ちた俗っぽさで、いや到底敵いっこのない文豪トルストイの才能に対する僻みと妬みも含めて、いわゆる傍観者の利己主義も含めて、能天気に批判気に面白がって騒いでいる世間の無責任なムードに、小林なりの視点とレトリックで反論し、逆に冷静に冷や水を浴びせかけている。たぶん恐妻家であったであろうトルストイと違って、それどころか、それをさんざん揶揄した正宗に対する「正宗氏なら山の神の横っ面を張り倒すぐらいのことはするのであろうが」という部分のコメントは、彼のあの文豪への理解と同時に、世間に対する彼一流の嫌みのない皮肉が利いていておもしろい。

それに関連して思い出すのは、若き頃、当時の奔放な若者たちの姿を描いて芥川賞を受賞したのはいいけれど、作品が大して続かず、いやその受賞作自体ただ奇を衒っただけで普遍性に欠けて、その後は作家としては泣かず飛ばずで、要領良くと言うか上手く作家には見切りをつけて転身し、今では俗そのものとしか言いようのない薄汚い政治屋的イメージしか思い浮かばせぬ元タレント作家、いや保守政治家がかつて政治家になりかけの頃、彼の日頃の言動からすれば、彼の文豪とは全く正反対に女房の横っ面を張り倒すぐらいの亭主関白ぶりと、想いとは別に結果的には溺愛が過ぎて、我が子は軟弱そのものに育ち上がってしまったけれど、それでも息子たちに対する嘘か真かは分からぬメディアを利用したスパルタ式教育本の強烈なイメージが、当時の世間を相当賑わしたものである。そういう意味では、作家の日頃の言動と振舞い、そしてその生活態度には、逆の意味で懐疑的で人一倍敏感な方かもしれない。その作品を鑑賞する以前に、彼らの実生活を具に眺めていて、直感的に偽善性と胡散臭さが感じられ、少しでも自分の素直で意に沿わぬ納得のいかぬ発言や行動や嘘があったりすると、いやその忌々しげな表情を見ただけで、彼らの作品に対する世間やメディアの作った表向きの評判がいかように好意的であったとしても、いや世間の評判が頗る良ければ良いほど、天の邪鬼ではないけれど、反対に世間のムードに嫌悪を覚え敬遠する質なのである。だから僕も恐妻家の同病者として、逆にトルストイに対しては、同情とは別にかてて加えて、文豪らしからぬ人間臭さに大いに益々共感を覚える次第である。女房の浮気に対して何も言えずにいる、「戦争と平和」の気弱な主人公ピーエールはおそらく彼自身の投影なのであろう。

ところで、昨今の何かと話題の芸人作家の、一見風刺の全く利かぬお笑い芸と語り口、そしてお茶らけたイメージしか浮かんでこない実生活と実相から発される思想・表現、即ち小説作品とは、一体どのような代物であるのだろうか。元より、いまだ読んでもいない作品に対してケチをつけるつもりなど毛頭ないし、ましてやろくな文章も書けぬ人間の言えた義理でもない。そんなことをしたら当然、僻み妬みから出た単なるケチつけに過ぎないと世間に思われるのがおちである。それにゴーストだの編集者が相当手を加えている筈だなどと、そんな下種な勘ぐりを入れたがる輩は、大体へその曲がっただけのさもしい奴と相場が決まっている。しかしながらそうは言っても、やはりもろ手を挙げての世間の歓迎ムードがどうも腑に落ちないのである。しかも選考前からの、彼の受賞を期待させるように煽りたて、既に彼の受賞は決まったかのようにハシャギまくるメディアの報道ぶりを眺めていると、それが好意的なものであれ否定的なものであれ、毎年ノーベル文学賞の発表間近になると村上春樹を持ち出しては異常に大騒ぎする日本のマスコミメディアの姿に二重写しになって、それに触発された世間の評判と言うやつが、本当は事実から目をそらされた、まさに真実を見そこなかったかのような間抜けな姿に思えてきて益々耐えられなくなるのである。その上、真理の追究だの思想・信条・報道・表現の自由だのと、出版メディアが普段いくら綺麗ごとを並べ立ていても、自分の事となるとそれと全く正反対の事をやることが結構多い。そうした彼らの大騒ぎぶりを眺めていると、小説文学など言っても所詮ミスコンと同じ主観の世界、主催者が何とでも理屈を付けて辻褄は合わせられると、そんな詰らぬ勘ぐりをさえ入れたくなる世間のムードなのである。今度の件、今流行りのテレビ番組、芸能人一流格付け番組なるものと同じ要領で、つまり目隠しテストで経歴を一切隠して発表された彼の同一作品が、躊躇なく選ばれるのなら文句のつけようもないことなのだが、とにかくそんな検証など出来っこない。どこかの企業が主催するミスコンの選考が、既に大手プロダクションの唾のついた売り出し予定のタレントに事前に決まっているように、それが芸能プロダクションと出版社との提携による、商業主義に根ざした何でも有りの売らんがための本当に巧妙な販売戦略だったとしたならば、いくら出版界の生き延びていく上での方便であったとしても、それはもう彼らの自殺行為となる。

とは言え、実際は我々の様な何に対しても一旦は構える様なポーズを取るへそ曲がりには、件の芸人作家自身は表向きそう見せかけておいて、その内実と実相は言葉に言い表わせぬ世間の不合理と不条理に日夜悩み抜いていて、逆に作品内容はそれへの巧妙な投影なのかもしれないのだから、軽々に先入観とうわべのイメージだけで判断するのは如何なものかと大いに反論されるかもしれない。いや、日頃のイメージとは別に、実際の人間性との格差、つまり逆の意味での落差と意外性とで感動を覚えさせることもあるだろう。実際、そういう事もあるかもしれないが、しかし何しろこの二三十年、如何にも世間の関心を引こうとする、魂胆見え見えの奇を衒うだけの小説作品には、全くの食わず嫌いかどうかは分からぬが、嘘っぽくて読書欲が全く湧かず、タレント本は当然、どういう訳かその手の小説なるものに全く目を通していない。この年になると、もう残された時間も少ないせいか、時間が惜しく、どうしても未だ読んでいない過去の名作や古典にばかり目が向かってしまうのである。しかし、それでも恐らく彼の場合、小説家としての創造力と文章力は当然あるのであろう。だから論評する以上は、いくらなんでも必ず一度は目を通しておかねばなるまいと思っている。もし思いこみとは逆に感動を覚えさせられるような作品であったならば、その時は当然、潔く自らの不明を恥じねばなるまい。

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あまりに過大評価された日本人 吉田松陰

 

                             行燈省益

あまりに純粋培養された故の潔癖さなのか、はたまた猛なのか狂なのか、彼の本当の実力と人間性はよく分からない。でも内実はともかく、例えば「講孟余話」などの著述から何となく察せられる、おそらく頭脳がまっさらであったろう幼少期から、父親や伯父に無批判かつ必要以上に植え付けられた、それは平気で異教徒を惨殺できるテロリストが、イスラム神学校で幼少期から無批判に教わって丸暗記したコーランの教えと同じ様に、はるか昔の春秋戦国期以来、権力体制がいかように変わろうとも権力者にとってだけは常に都合がいいように守らてきた古代中国人の価値観、そして日本の尊王主義にもつながる、四書五経に描かれた鼻につくほどの至誠ぶりと忠孝イズムに影響され過ぎたせいなのかは知らないが、いや、それとも漢文を読み下す際の「音読み訓読み」入り混じった日本語独特の、いかにもうす気取った言葉の雰囲気や語感に酔いしれたせいなのかは知らぬが、後年、三島由紀夫の「豊穣の海」に出てくる、あまりにこまっちゃくれたパラノイア少年飯沼勲にも通じる、その馬鹿馬鹿しいまでの現実から乖離した、そして年齢以上にあまりに背伸びして大人ぶった情緒的な思考表現は、密航に失敗し、さらに死に際して残された短歌、つまり「かくすればかくなるものと知りながら・・・」とか「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし・・・」などと同様、相も変わらず感傷的で大和魂に何となく魅了されてしまった一部の日本人には、堪らないほどの高揚感にも襲われて大いに受けるのであろう。「喉元過ぎれば熱さ忘る」とはよく言ったもので、惨めな敗戦に懲りもせず、一度は否定されたはずの吉田松陰の過激な尊王思想や行動も、天皇や政治指導者たちの敗戦責任(断じて戦争責任ではない)を実に巧妙に曖昧にしてしまった戦後の雰囲気の中で、それに利用されるかのように、これまた実に見事な復活を遂げてきた。なお且つ、最近の教育勅語に対する「教育勅語にもいいところはあった」などと言う、いかにも薄っぺらで稚拙な思い入れ発言や自主憲法制定の動きなど、時代の右傾化を反映する単純偏狭な民族意識や国家意識の高まりの中で、彼はいま再び、ことさら過大に評価されようとしている。

 

まあ、冷静に考えてみれば、とりわけ必要以上に影響を受けた孟子と同様、現実を無視して言いたい放題の事が言える学者っぽい無責任な立場からの、皇室崇拝にかぶれたその極端な尊王攘夷思想は、明治以来の敗戦に至るまでの、その後の日本のあまりに惨めな行き付き先を考えると、その影響力を考えて、慶喜可愛さの親馬鹿ぶりから、同じようにニセ勅許(戊午の密勅)と攘夷でさんざん煽りまくって桜田門外の変と天狗党の乱という幕末の二大愚挙を引き起こし、その後の水戸藩を回復不能なまでにずたずたにした挙句、幕府崩壊の端緒を開いた第一の功労者、御存じ「天下の副将軍」徳川斉昭と並んで罪作りで馬鹿げていたという点では双甓である。そう思うと、今でも彼を必要以上に美しく描く相変わらずの物語は、彼をどこか過大評価する、つまりどんなテロリストであっても尊王論者でありさえすれば、例えば土佐勤皇党の武市半平太らに代表される単純で狂信的な攘夷主義者であっても、さらには現実を無視した短絡的で偏狭な尊王攘夷主義者の代表格であった久坂玄瑞らを、すぐに偉人や善人にしてしまう、現代まで連綿と続く幕末から明治期に発生した安易なポピュリズム的英雄譚のさきがけであったろうか。しかし断わっておくが、吉田自身は紛れも無く無条件に実直で誠実な人物であった。幼児期に洗脳されて植えつけられたのであろう、その強烈な天皇崇拝ぶりも、彼自身の心の中では自らの良心に何ら恥じるものでも無く、彼が唱えるその人民至上主義とも全く矛盾しないものであった。どう思われ解釈されようと、彼なりに衷心からの気持ちであったのは確かなのであろう。しかしそうは言っても、例えば大獄における刑死の直接原因となった過激で突発的な「間部老中要撃策」などは、やはり冷静で客観的視点で捉えるならば、それは朝鮮併合に比較的慎重であった伊藤博文を暗殺して、結果的に朝鮮併合を早めてしまった安重根が、その軽挙ぶりにも拘わらず、その意気やよしという程度での独立運動の英雄として、韓国で今でもことさら情緒的に称えられているのと同様、本当は同じようなレベルでの話ではなかったのだろうか。その青臭さは、後年ことさら大仰に「維新の父」などと呼べる代物でもなかったのだ。ちなみに看守や獄史に同情される点も含めて、あまりに二人の人物像と環境は似かよっている。

 

ところで文芸や芸術などの美的領域ならいざ知らず、つまり年齢に関係なく才能次第で、どんな若者でも早熟の天才という言葉で簡単にかたずけられることは可能だけれど、しかし長い人生に裏打ちされて初めて語れる、社会論と政治論を含めた人生哲学などになるとそうはいかない。しかし三十歳にも満たない青二才と言っても言い様な、文字通り世間知らずの、このやたらこまちゃっくれて世間を知ったような若造の大仰な物の言いようにも拘わらず、その最後が日本人好みの悲劇性を帯びていたせいもあって、いや帯びていたかのように戦後もずっと変わらずに、映画や書物やNHKの大河ドラマなどが、彼の実像を何となくぼかして必要以上に悲愴に描くせいか、さらには未だ日本人自体が戦前の王政復古の薩長史観に引きずられてその呪縛から逃れられないでいる影響もあって、あのイスラム原理主義者顔負けの、あまりに排他的で自己中心的な思考であるにもかかわらず、すなわち本居宣長や佐藤信淵らの偏りきった国学者の影響をまともに受けて著した「幽囚録」などに見られる、周辺アジアを小馬鹿にしたとしか思えぬ、その後の大東亜共栄圏をさえ予見させるような身勝手で自国中心主義に過ぎないだけの偏狭な尊王攘夷であったとしても(勿論その様なことはわが国だけの問題ではないけれど〉、それでも、いまだ独りよがりの民族主義の呪縛から逃れられないでいる、現代の少なからぬ日本人にヒーローとして大いに持て囃され美化されがちである。

いや、それでも歴史にもしもが有ったならばと、想像力だけは結構かきたてられる人物ではある。幼少時代の、まるでいっときの戸塚ヨットスクールの指導を彷彿とさせるような暴力的環境の中で、どんなに殴られ蹴られようともじっと耐えていた精神性、そして父母に対する舜に勝るとも劣らぬ孝行振りにはほとほと感心もする。幼くして主君の前で山鹿流軍学を講じたのだから、知的能力も相当であったに違いない。そして教育者としての適性も人望ももちろん十分あったのであろう、それだけは認めねばなるまい。だからこそ、あの時二十歳すぎの多感な吉田大次郎(寅次郎)青年が密航に成功していたならば、つまり下田に停泊していたペリー艦隊が、条約違反の批判を恐れず、結ばれたばかりの和親条約の細かい条文を一切無視して、彼をアメリカに連れ帰っていてくれたならばと心から思わざるを得ないのである。もしも、そのようにして海外の進んだ文明に触れた途端、人生観を180度変えた、それまでとその後の偏狭で無知な多くの若者同様に、彼も尊王主義に基ずいた頑迷な攘夷思想をかなぐり捨て、さらに、おそらく黒人解放を目指して大統領予備選を戦っていたであろう、その頃のリンカーンにでも万が一遭遇して大きく影響を受けていれば、風が吹けば桶屋が儲かるの伝ではないが、その後の日本の歴史は大きく変えられていたに違いない。その様にして、日頃の天皇崇拝ぶりから解放されて、たとえそれが天皇であれ誰であれ、人の上に人を作ることの愚かさに気付いて大きく目を見開かされ、社会主義者とは言わぬまでも、せめていっぱしの民主主義者にでもなっていたならば、そしてその後何年もの異国体験を経たのち帰国し、同じように松下村塾で、若者たちにそのアメリカ仕込みの民主主義を教えることが出来ていたならばと、あらためて思わざるを得ないのだ。そして、仮にもし本当にそんな風になっていたとしたら、実際はそうではなかった自分のとった現実の行動をあの世から俯瞰して、彼はその軽はずみの行動を心から恥じている筈なのである。

実際、賎民などの被差別者に対する彼の同情と理解、さらに加えて、聾唖者であった実弟敏三郎へのやさしさと思いやりを考えたならば、太平洋戦争後の多くの軍国少年たちが、敗戦をきっかけにしてジャズやハリウッド映画などのアメリカ文化に触れるや、植え付けられた軍国主義をかなぐり捨てて突然の様に民主主義者に変身していった如く、それは大いにあり得た話なのである。そして彼に影響を受け開明的になった多くの松下村塾の若者たちも、同じようにその後の偏狭で極端な尊王攘夷主義から解放されて、あの明治から昭和20年8月15日に至るまでの極端な天皇制絶対主義に主導された、戦前日本の歴史は大きく変えられていた可能性もあった訳である。つまりアメリカに二度までも原子爆弾を投下され、ソ連には北方領土まで奪われて、最後には連合国の言うがままにポツダム宣言を受け入れて無条件降伏すると言う体たらくを演じた、あの1945年8月の無残な結末は無かったのかもしれないと。それは間違いなく日本の二千年間の歴史を通じて最悪の情況であり、それは又、間違いなく天皇制という時代錯誤がもたらした最大の悲劇惨劇でもあったのだ。実際、幕末開国すれば、諸外国に日本は蹂躙されるなどと大騒ぎをして天皇を祀りあげて幕府を倒しておきながら、それから80年足らずのあとに、神国は蹂躙され穢されるどころか、四百万人近くもの人民が殺されたあげく国土は焼けつくされ、異国に国家を占領されると言う屈辱的体験を喫し、逆に東日本大震災の何百倍にも匹敵する大惨状を日本中にもたらしたのであった。しかも皮肉なことに、幕末尊攘志士たちが主張した通りに、大和魂に浮かされて強気の道を歩んだ結果、逆に彼らが心配した通りに、神国は穢されるどころか、無礼にもミカドまでが進駐軍司令官の前に引きずり出され、文字通り彼にホゾの如く振舞われ、朕の上から為す術も無く臣下としての礼を強要され、異国に日本を壟断させる状況を導いたのである。さらに情けないことには、戦前戦中あれだけ鬼畜米英などと大言壮語して国民を煽っておきながら、そうした朕までもが虚仮にされるという忌まわしい状況に直面しても、悲憤慷慨して腹を切った軍人右翼など全くいない有様であった。それを思うと、今も全てが英雄主義的に描かれるあの幕末の尊王倒幕運動とは一体何であったのであろうか。

長州藩の儒学者、山縣太華との論争においても、最初は「万民の為の天下」を声高に叫んで、恰も憂国の至情から人民至上主義を貫いているかのように幕府批判をしていたくせに、天子と人民の軽重を問われるようになると論理的に詰まって、最後は開き直るように「僕は人民よりもあえて天子を取りたい」などと、学者としての冷静で学究的考察の全く欠如した、さらに言えば、彼よりも100年以上も早く、既に18世紀半ばに徹底した万民平等思想を唱えて、心底から人民の安寧だけを考えていた安藤昌益などとは全く異質で、知識人としての良心もかなぐり捨てた自分の単なる思想的嗜好を述べるに過ぎなくなっている。すなわち、歴史の逆行以外の何ものでもない「王政復古」などを持ち出して、その上、その後、戦前教育勅語にも繋がった様な「一君万民」などと、「天子の為なら人民の多少の犠牲は全く厭わない、四百万人程度の犠牲なら全く問題ない」と言う意味にも取られかねない、たとえそれが倒幕の為の方便であったとしても決して許されるものでない、理屈の分かる人間であったならば到底あり得ない情緒的で最低なレベルの主張に陥っている。それは既述した如く、人民至上主義を一方で唱えながら、片方で天皇礼賛に走る論理的説明のつかない彼の大きな矛盾であった。さらに分かりやすく言うならば「裸の王様」の中の愚かで欺瞞的な大人たちではないけれど、おかしいとは思いつつ何の疑念も抱いていないふりをして見せる、現代の進歩的と言われる連中も含めた、その後の多くの日本人が心の中で共通して併せ持つ、例えば皇室制度容認と人間平等の為の部落差別撤廃運動の推進と言った類の、併存不能で不可解極まりない実に巧妙な矛盾を単に先取りしていたに過ぎない。あえて彼を好意的に評価するならば、高潔な人格に加え、「東北行」や「下田踏海」に見られるように、思想家と言うよりも並はずれて優れた実践者であったと言うべきであろうか。

彼の属した長州藩においても、まだ当たり前の理屈が判る山縣太華や「航海遠略策」を建白した長井雅楽らの方がはるかにバランス感覚が有って大人の考え方なのであったが、巻き起こる尊王攘夷の熱狂の渦の中でそのような常識論は逆に全て否定されていき、代わりに吉田の様な、未熟な若者達を煽るだけ煽って刑死していった過激な人間が英雄視されていくのである。あの私塾に集まってくる若者をも、相変わらず、例外なく皆好意的に描くドラマや映画の松陰物の演出手法も痛く鼻につくけれど、志半ばに倒れた者は別としても、いや村塾出身者も含めた藩閥政府高官の腐敗堕落にまでたどり着けなかった志士達は、逆にある意味幸運であったかもしれぬが、功なり名を遂げて侯爵伯爵男爵様にまでなられた幕末の英雄達のそのなれの果てを精緻に観るにつけ鼻が白ける場合が多いのである。義卿が仮にその後も生きながらえていたとしたら、果たしてそれをどう見たのか実に興味深い。

 

つまるところ、幼少期以来刑死するまで頭の中に散々叩きこまれ出来あがった、卑屈なまでの天皇崇拝に基ずく彼の一連の発言と行動は、倒幕からポツダム宣言受諾に至る戦前の天皇制軍国主義国家日本にとってだけは非常に都合のよいものであった。さらに冷静に見れば、それは世界が閉ざされた独りよがりのものであり、他の多くの偏狭な民族主義者の主張と全く同じであって、ただその際立った至誠ぶりと孝行ぶりが故に、その様な人物は須らく尊王の志が篤く、その主張も正しく立派であると、後年、村塾関係の多くの政府高官の影響力もあってか、短絡的に政治利用されたに過ぎなかった。その様に評価され利用された事は、彼にとっては不本意なことであったかもしれない。しかし天下の変節漢、徳富蘇峰を始めとする超国家主義者らによって祭り上げられ、さらにその尊王ぶりを微妙に歪曲され利用され続けた部分があったとは言っても、その本当の悲劇性から考えれば、西郷大久保らに主導された、薩摩の因循姑息な幕末の変節ぶりに悲憤慷慨し、討薩檄などで徹底糾弾して斬首され、挙句、その死体を見せしめの様に解剖にまで付された米沢藩士雲井竜雄の方が遥かに同情に値するものであった。さらに言えば、吉田よりも若く、彼と同じ様に大獄に刑死した橋本佐内や、目的の為なら手段を選ばぬ冷徹な陰謀家そのものであった西郷が、無慈悲に放ったテロリストの凶刃に倒れた赤松小三郎らの様に、世界の情勢に明るく、現実的かつ合理的でもっと評価されてしかるべき日本人は、つまり本当に惜しむべき人材は吉田以外にいくらでもいたのである。倒幕は歴史の流れから言えば必然の事であったけれど、吉田らが主張した様な、過去の歴史を無条件に美化して逆行させた王政復古など一番やってはいけないことであったのだ。

 

 

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戦後レジームからの脱却

「昭和の妖怪」と言われた祖父からの、目に入れても痛くない可愛がられようで幼少期を過ごし、なお且つ戦前戦中の華々しい祖父の成功譚と権勢ぶりをさんざん聞かされて育てば、体験せずとも、大アジア主義華やかなりし頃の、大いに威勢の良かった時代の軍国ニッポンに何となく懐かしさを覚え、ついでに憧れを抱くのも当然であろう。これは生まれながらにして、反骨心と独立心とが旺盛な余程に英邁な人物で無い限り、世の中の不条理や不合理に対して何の矛盾も感じず何の疑問も抱かず育てられてしまった、普通の平凡な、いわゆる凡庸な世襲政治家が必ず辿る普通の道なのである。

ところで、「戦後レジームからの脱却」などという大仰な物の言い草自体、お坊ちゃん育ちのあの方にはあまり似つかわしくはないフレーズだけれど、子どもの頃、意味も分からずにテレビから流れ出る「アンポ反対」のスローガンに唱和して遊んでいた経歴からすると、今も本当にその意味が分かって口にしているかどうかは疑わしい。だいいち肝心の「戦後レジーム」なる言葉自体、その具体的内容が曖昧模糊としていて分かりずらい。そもそも、具体的に一体何を指して言う言葉なのであろうか。戦後70年間の日本の平和を、つまりアメリカの軍事力によって延々と守られ、今も弾丸飛び交う世界の情勢をよそに、戦火を交えずに生活してきた日本人の平和状況の事を指して言うのであろうか。もっと具体的には、アメリカ進駐軍によって植え付けられてきたアメリカ流民主主義によって、日本の市民社会が近代化され経済が繁栄し、そしてアメリカ式の生活スタイルやジャズ音楽やハリウッド映画などのこてこてのヤンキー文化を享受謳歌してきた享楽的状況を言うのであろうか。それとも、少なくともソ連や中国や北朝鮮からのイデオロギー的影響を受けつつ、体制批判はおろか戦後民主主義の恩人アメリカに対しても自由に批判できた社会民主的戦後政治体制の自由を言うのであろうか。或いは、そのどちらにしろ、そういう風に最高に自由を享受出来、お腹もある程度満たされ物質的にはともかく満足したので、あとは戦前の大東亜共栄圏ではないが、もと来た道を戻って日本を中心にした大アジア主義で精神的にもっと勇ましく日本人らしく行きたくなったとか、とにかくそうはっきり言ってくれればよく分かるが、要するに、具体的にどういう状況からどのような状況に変わりたいのかという事がよく分からない。

植え付けられたアメリカ式民主主義社会が気に入らぬと言うのであれば、日米同盟などというフレーズ自体全く矛盾する。また、中国などの体制の異なる国からの影響力の排除を強く言えば、戦前の暗黒体制への逆行と非難されるのが落ちだから、そんなことは腹の中では思っていても面には絶対表わさぬであろう。では一体、何のための戦後レジームからの脱却なのであろうか。単なるキャッチフレーズの言葉遊びに過ぎぬのだとしたならば、特段世間も大騒ぎする必要もない。

今さら戦後レジームなどと言われても、そもそも戦いに敗れたならば、国体はもちろん日本国滅亡も当然想定し、覚悟して欧米列強との一戦に臨んだ筈ではないか。現憲法がアメリカにあてがわれて出来たものだと、殊更に強がりを言って虚勢を張っても、先を越されて核爆弾を投下され、固有の北方領土まで奪われて完膚無きまでに負けたのだから、何をされようが文句など言える筈がない。古来、戦争の習わしで、本当なら日本男児は全員須らく金玉を抜かれ、なでしこ達はことごとく娼婦にされていてもおかしくは無かったはずである。戦争指導者たちが敗戦の責任を取って腹も斬れずに、ただアメリカの御慈悲に縋って、自分たちはおろか国体も維持して生き残って来られたのだから、いわゆる平和憲法を押し付けられても文句は言えまい。それよりも本当の日本男児であれば、靖国参拝などせずとも、あの時潔く靖国の大鳥居の前で、腹を掻っ捌いて英霊に詫びていなければならなかったのである、少なくとも戦争指導者どもは。とにかく、「戦後レジームからの脱却」などと言う一見カッコイイだけのスローガン自体、苦労知らずのお坊ちゃん宰相の言葉遊び,単なるたわごとに過ぎない。

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